09:直せるらしい
それを知ったのは、昼休みだった。
社内の休憩スペースで、
コーヒーを淹れていたときのことだ。
同僚が、何気ない調子で話し始めた。
「ああ、そういえばさ」
「感情値、直せるケースがあるらしいよ」
直せる。
その言葉に、少しだけ手が止まった。
「直すって?」
俺が聞くと、
同僚は肩をすくめた。
「調整? 修正? まあ、正式には“再測定”とか言うらしいけど」
「稀に数値が固まる人がいてさ」
「制度としては、一応用意されてるんだって」
まるで、保険の説明みたいな口調だった。
使う人はほとんどいない。
でも、選択肢としては存在する。
そんな扱い。
「使った人、見たことある?」
「ないな」
「聞いた話だけ」
それで会話は終わった。
深掘りする空気でもなかったし、
同僚自身も興味がなさそうだった。
俺も、それ以上は聞かなかった。
午後の仕事は、いつも通りだった。
書類を処理して、
会議に出て、
特に変わったことは起きない。
それでも、
さっきの言葉が、
頭の片隅に残っていた。
直せるらしい。
その表現が、
なぜかしっくりこなかった。
帰り道、
駅へ向かう途中で朝霧と合流する。
「お疲れ」
「お疲れさま」
それだけで会話は成立する。
いつも通りの距離。
いつも通りの歩幅。
数値は確認しなかった。
確認しなくても、
変わっていないことは分かっていた。
もし直せるなら。
もし動かせるなら。
そう思ってみても、
その先の行動が浮かばない。
何かを失っている感じもしない。
困っているわけでもない。
朝霧は、
いつもと同じように歩いている。
それでいいのかどうか、
判断する必要があるのは、
たぶん俺のほうだけだった。




