75、女優「五邑令美」の相席食堂
「すばらしい食べっぷりだ。実に、実に素晴らしい」
不意に、テーブルの横から芝居がかった男の声が聞こえた。
顔を上げると、そこにはいかにも「業界人」といった風貌の男が立っていた。
頭には斜めに被ったベレー帽。首元には派手なスカーフを巻き、細い口髭を蓄えている。年齢は三十代後半といったところか。その目は、獲物を見つけた猟師のようにわたしを熱く見つめていた。
「突然申し訳ない。私は、この街を拠点に活動している『青き風車劇団』の演出家、シャルルという者だ。君、先ほどから君の食事風景を見させてもらっていたのだが……まさに完璧だ。食べ物に対する溢れんばかりの愛情、一口ごとの感動を全身で表現するその姿、まさに私が求めていた『真実の演技』そのものだよ!」
シャルルと名乗った男は、胸の前で両手を組み、陶酔したように語り始めた。
わたしは怪訝な顔で彼を見返した。
食事風景を見られていたというのも趣味が悪いが、真実の演技とはどういうことだ。わたしはただ、海鮮丼の旨さに身を任せていただけで、演技など一切していない。
「あの、人違いじゃないですか。わたし、ただご飯を食べていただけなんですけど」
「いや、違う! 君の中には、天性の表現者が眠っているのだよ! 突然で失礼だが、君、私たちの舞台に出てみないか?」
「舞台?」
わたしは思わず身を乗り出した。
前世の記憶――子役上がりで、舞台女優の端くれとして生きてきた五邑令美としての血が、無意識に騒いだのだ。
(ほほう、この男、胡散臭い割に見る目があるわね)
「ええ。実は明後日、この街の劇場で新作の人情喜劇を上演することになっていてね。食堂を舞台にした借金取りvs冒険者の、涙あり笑いありの痛快な物語で――」
男の語る粗筋は、絵に描いたようなベタな展開だった。だが、大衆演劇においては、そのベタさこそが王道であり、観客を最も引き込む力を持っている。わたしは女優としての観点から、その脚本の強さを素直に認めた。
「で、その舞台のどこにわたしが出る幕があるんですか?」
「実は、致命的な問題が発生してしまってね。冒険者一行の一人である女性剣士役の女優が……その、深刻な『魚嫌い』なのだよ」
シャルルは頭を抱え、大げさなため息をついた。
「故郷の味である海鮮料理を、涙を流さんばかりの感動と共に貪り食う。それが物語の最大の山場への感情移入のフックになるはずなのだが、彼女が魚を食べる時の顔といったら……まるで毒を盛られた罪人のような、この世の終わりみたいな表情をするのだ。何度指導してもダメでね。あれでは観客が白けてしまう。だから、食事のシーンだけ、君に代役をお願いしたいのだよ!」
食べるシーンだけの代役。
いわゆる、部分的なスタンドインというやつだ。
「ちょっと待ってください。食べるシーンだけ代役って、顔が違うじゃないですか。観客にバレバレですよ」
わたしの的確な指摘に対し、演出家の男はニヤリと笑った。
「その点は心配無用だ。我が劇団には優秀なメイク専門の魔術師がいる。顔の骨格から肌の色まで、一時的に他人の容姿を模写する『化粧魔法』があるのだよ。君の顔を完璧ではないが、その女優と同じ雰囲気に作り変えることができる」
化粧魔法。
なんて便利なものがあるのだ、この世界には。前世の特殊メイク担当のスタッフが聞いたら、血の涙を流して羨ましがるに違いない。
「じゃあ、食べ物の方を細工すればいいんじゃないですか? 魚の形をしたお菓子とか、鶏肉で作ったフェイク料理とか。そうすれば、その女優さんも嫌な顔をせずに食べられるでしょ」
わたしが別の解決策を提案すると、男は強く首を横に振った。
「駄目だ。ここはボーダーだぞ。文化芸術の街であり、しかも漁港を伴った港町だ。観客の半分は、毎日魚を見ている漁師や商人たちだ。本物の魚と、偽物の作り物の違いなど、彼らの肥えた目には一瞬で見破られてしまう。舞台上の小道具とはいえ、そこは絶対に嘘をついてはならない。本物を、本物の感情で食さなければならないのだ」
男の言葉には、舞台芸術に対する異様なまでの執念と誇りが込められていた。
その熱意は、わたしの中の表現者としての魂に火をつけるのに十分だった。
(見る人が見ればわかる……か。確かに、舞台の上での誤魔化しは、必ず客席に伝わるものよね)
わたしは腕を組み、得意満面の顔で頷いた。
「なるほど、事情はわかりました。あなたのその舞台に対する情熱、嫌いじゃないわ。いいでしょう、その代役、わたしが……」
「断る」
わたしが快諾しようとしたその言葉を、横から冷たく切り捨てたのは、統だった。
「え、ちょっと統! なんでよ。面白そうじゃない」
「先ほど、市場で目立つなと怒られたばかりだろう。お前の学習能力は魚以下なのか」
統は呆れたように言い放った。
「それに、化粧魔法で顔を変えたとしても、舞台に立てば魔力の波長や仕草の癖で不特定多数の目に晒されることになる。この街には何が潜んでいるかわからん。不要なリスクを負う意味がどこにある」
「そうよ。わたしも反対」
アリアさんも統に同調して頷いた。
「あんたたちはただでさえ規格外の爆弾みたいなものなんだから。これ以上、目立つような行動は慎みなさい。舞台に立って拍手喝采を浴びるなんて、もってのほかよ」
保護者(仮)とお目付け役の二人から完全に包囲網を敷かれ、わたしの女優復帰計画はわずか数分で頓挫することになった。
「うぅ……せっかくの晴れ舞台だったのに」
わたしが唇を尖らせて不満を露わにしていると、シャルルはひどく残念そうな顔をして肩を落とした。
「そうか。身内の方の許可が下りないのなら仕方がない。……あのような素晴らしい食べっぷりを舞台に乗せられないのは、我が劇団にとって最大の損失だが。もし気が変わったら、いつでも中央の劇場を訪ねてきてくれ」
男は名残惜しそうに一枚の招待券をテーブルに置き、去っていった。
わたしはその招待券を恨めしそうに眺め、やがてため息と共にお茶を飲み干した。
「さっさと宿を探すわよ。日が暮れる前に、安全な場所を確保しないと」
アリアさんが立ち上がり、わたしたちを促す。
食堂を出て、北区の神殿方面へ向かうべく歩き出した時だった。
アリアさんが、ふと街の中心部――高い尖塔を持つ評定所の建物を睨みつけて、不穏なことを口にした。
「……それにしても、あなたたちには騒動が付いて周ってるみたいね」
「騒動?」
わたしが聞き返すと、アリアさんは面倒くさそうに首の後ろを掻いた。
「さっきのお店で商人たちが色々噂してたじゃない。あなたは海鮮丼に夢中で聞いてなかったかもしれないけどね。私たち、休暇で来たわけじゃないとは言え、どうしてこうもきな臭い場所ばかり引き当てるのかしらね」
アリアさんのその愚痴は、見事なまでに次のトラブルへの招待状であった。
自治都市ボーダー。
一見すると活気に満ちたこの商業都市の裏側に、どれほど深く、そして救いようのない闇が広がっているのか。
魚市場での平和なひとときは、その後に続く長い長い騒動の、ほんの短い前奏曲に過ぎなかったのである。




