69、うちの弟に触るな! 炸裂する女子高生の鉄拳
わたしが宣告した直後、結界の中に満ちていた冷気が一段と鋭さを増した。
吹き飛ばされて石畳に倒れ伏していたアシュドラが、ゆっくりと立ち上がる。彼の雪のように白かった頬には、私の拳が残した赤黒い打撲の痕がくっきりと刻まれていた。端正な顔立ちが崩れたことで、彼が必死に取り繕っていた貴族的な余裕のようなものが完全に剥がれ落ちている。
「……下等な猿が。まぐれ当たりの一撃で、図に乗るなよ」
アシュドラの声は、もはや優雅なポエマーのそれではなく、完全にプライドを傷つけられた怨霊の呪詛だった。
彼の背後で渦巻いていた闇の魔力が、具体的な形を持ち始める。無数の巨大な刃、あるいは群れをなす猛獣の顎。光を一切反射しない漆黒のエネルギー体が、彼の周囲で何十、何百と生み出されていく。
それが全部こちらに向かってくると想像しただけで、普通の人間なら心臓が止まっている光景だ。前世の私なら、間違いなくその場で気絶して全速力で逃走する夢を見ていただろう。
でも、今のわたしは一歩も引かなかった。
背後にいる統から供給されている、過剰なまでの身体強化と絶対防御の恩恵。それが私の全身の血管を駆け巡り、信じられないほどの万能感を与えてくれている。
それに何より、身内をゴミ扱いされた怒りが、恐怖という感情を完全に麻痺させていた。
「猿はどっちよ。そんな見掛け倒しの手品で、私を止められると思っているの」
「身の程を知れ。我ら『古き者』の深淵を、その身に刻み込んでやる」
アシュドラが両腕を振り下ろした。
それを合図に、周囲を取り囲んでいた無数の漆黒の刃と猛獣たちが、一斉に私に向かって殺到してくる。空気が引き裂かれる鋭い摩擦音が、四方八方から鼓膜を叩いた。
わたしは大きく息を吸い込み、構えていた両腕を前に突き出した。
避ける必要はない。防御の魔法を展開する必要すらない。
ただ、目の前に迫る最大の闇の塊に向かって、力任せに拳を叩きつけた。
激しい衝突の衝撃が空間を揺らす。
わたしの拳が触れた瞬間、アシュドラの放った漆黒の刃は、まるで薄い飴細工のようにあっけなく砕け散った。砕けた闇の破片が周囲に飛び散り、霧のように消滅していく。
他の猛獣の形をした魔力も同様だ。わたしの身体を包む見えない防御障壁に触れた端から、無害な空気の粒に変換されて消え去っていく。統の掛けてくれたバフは、わたしの想像を遥かに超える出鱈目な性能を誇っていた。
「馬鹿な……。我が眷属と魔刃が、すべて無効化されただと……?」
アシュドラが、信じられないものを見る目で目を見開いた。
彼が驚愕で動きを止めたその一瞬の隙を、わたしが見逃すはずがない。
足元の石畳を蹴り砕き、弾丸のような速度で一気に彼との距離をゼロにする。
「手品は終わり? じゃあ、こっちの番ね」
わたしはアシュドラの胸倉、あの無駄に装飾の多い漆黒の外套の襟元を左手で乱暴に掴み上げた。自分より頭一つ分は背の高い大人の男性を、片手で軽々と宙に持ち上げる。吸血鬼の怪力と統の強化魔法の相乗効果は、物理法則を完全に無視していた。
「離せ、下賤な……!」
「黙れって言っているのが聞こえなかったの?」
わたしは右の拳を高く振り上げ、そのまま彼の端正な顔面めがけて、容赦のない角度で叩き込んだ。
重い打撃音が結界の中に響き渡る。
アシュドラの頭が激しく後ろにのけぞり、襟元を掴んでいる私の左手に彼の全体重がのしかかる。だが、わたしは彼を逃がさない。
「これはね、さっきまでの長いポエムを聞かされた私の精神的苦痛に対する慰謝料」
もう一発、今度は左から右へと拳を振り抜く。
頬骨がひしゃげる不快な感触が伝わってきた。
「こっちは、せっかく海鮮丼を食べて幸せな気分だったのに、夜のお散歩を邪魔されたことへの損害賠償」
さらに一発、みぞおちに向かって膝蹴りを突き上げる。
アシュドラの口から、空気が無理やり押し出されるような苦悶の呼吸が漏れた。
彼はわたしの腕から逃れようと必死にもがき、近距離から影の魔法を放とうとするが、発動する前に私がその腕を打ち払い、完全に無力化する。
「そして最後は」
わたしは彼を地面に引き倒し、その胸ぐらを掴んだまま馬乗りになった。
「うちの可愛い弟を、あんたみたいな痛いオジサンが馬鹿にしたことへの、純粋な制裁よ!」
右、左、右。
前世のテレビゲームで格闘技のキャラクターがやっていたような、連続のパウンド攻撃を叩き込む。もちろん急所は外しているし、彼も吸血鬼だからこの程度で死ぬことはない。だが、プライドと顔面の形は完全に崩壊するはずだ。
数発殴ったところで、ようやく私の腹の底にあった怒りの炎が収まってきた。
わたしは大きく息を吐き出し、血と泥にまみれて息も絶え絶えになっているアシュドラの胸ぐらから手を離した。
立ち上がり、自分の手の甲についた汚れを嫌悪感と共に拭い落とす。
「……あー、すっきりした」
わたしは肩を回しながら、足元で呻いている自称・夜の支配者を見下ろした。
綺麗な顔は見る影もなく腫れ上がり、高級そうな外套もボロボロに引き裂かれている。もはや威厳の欠片もない、ただの敗北者だ。
「な、なぜだ……」
アシュドラが、腫れ上がった目から血の涙を流しながら、掠れた声で呟いた。
「同じ純血種のはず……いや、ただの純血種に、我が深淵の魔術を破る力などあるはずがない。貴様、一体何者なのだ……」
彼はまだ、わたしが自分の実力で彼を打ち負かしたと信じ込んでいるらしい。
違う。わたしはただの、ちょっと喧嘩の強い元女子高生だ。あなたの魔法を無効化し、わたしの拳に戦車を砕くような威力を与えているのは、わたし自身の力ではない。
わたしが否定の言葉を口にする前に、アシュドラの視線が、わたしの背後へと移動した。
そこには、一連の戦闘を完全に他人事のような顔で見物していた、統が立っている。
アシュドラの焦点の定まらない赤い瞳が、統の漆黒の瞳と交差した。
その瞬間だった。
足元に倒れていたアシュドラの身体が、極寒の氷水に放り込まれたように、激しく痙攣を始めたのだ。
「あ……ぁ……?」
彼の喉の奥から、言葉にならない恐怖の呻き声が漏れる。
アシュドラは、統の目の中に「何か」を見たのだ。
わたしにはただの無愛想な子供の目にしか見えないが、同じ闇を生きる者同士だからこそ知覚できる、圧倒的な次元の違い。
何万年もの時間を生き、無数の星の誕生と死を見届けてきた、底なしの深淵。自分が「夜の支配者」などと名乗っていたことが、宇宙の広さを知らない虫けらの戯言であったと思い知らされるような、絶対的な格の差。
アシュドラは、顔の腫れも忘れたように両目を限界まで見開き、統を指差して後ずさろうとした。
「まさか……いや、あり得ない。そのような存在が、こんな人間の皮を被って歩いているなど……」
彼の視線が、統から再びわたしへと戻ってくる。
その目には、もはや同胞への親愛も、先ほどの怒りもなかった。あるのは、理解を超えた事象に対する純粋な狂気と、完全にこじらせた特大の勘違いだけだった。
「そうか……そういうことだったのか」
アシュドラは、壊れた玩具のように声を震わせて笑い始めた。
「貴様はただの純血種ではない。あの深淵なる闇を背後に従え、絶対の力を振るう存在。我ら『古き者』の始祖……真祖の再来か!」
なんだその飛躍しすぎた推理は。
真祖の再来。
いくらなんでも話が飛びすぎている。わたしはただ統のバフをもらって殴っただけなのに、彼の脳内では私が闇の頂点に君臨する恐ろしい女王様に昇格してしまっているらしい。統がわたしの保護者ではなく、わたしが統を従えているという、真逆の解釈だ。
「あのね、全然違うんだけど……」
わたしが訂正しようと口を開いたが、アシュドラはもう私の言葉を聞いていなかった。
「許せ、大いなる始祖よ! 己の矮小さも知らず、御身に求婚などと無礼を働いた私の愚行を! この命に免じて、どうかお許しを!」
わたしは地面に頭を擦り付け、信じられないほどの早口で命乞いの口上を並べ立てた。
そして、わたしが止める間も与えず、彼の身体は急速に黒い霧へと変化していった。
「御身の降臨、同胞たちに必ずや伝えましょう。夜の世界は、再び御身の前にひれ伏す日を待っております……!」
そんな迷惑極まりない捨て台詞を残し、アシュドラの姿は夜風に吹かれた煙のように、一瞬にして四散し、完全に消滅してしまった。
彼が張っていた外界を遮断する結界も、ガラスが砕けるような音と共に消え去り、再びダイスロープの港に本来の潮騒の音が戻ってくる。
後に残されたのは、殴りすぎて少しだけ痛むわたしの右拳と、完全に呆気にとられているわたしの心だけだった。
「……逃げた」
わたしは夜空を見上げ、深く長いため息を吐き出した。
「面倒くさいことになったわね」
「そうだな」
背後から、統がいつも通りの平坦な声で歩み寄ってきた。
「わたしのせいにしないでよね。あんたが最初からそのチート能力で追い払ってくれれば、あんな意味不明な勘違いされずに済んだのに」
わたしが恨みがましく睨むと、統は少しだけ肩をすくめた。
「相手の誤認を正す義務は私にはない。それに、あれが逃げ帰って『古き者』の界隈に噂を広めれば、しばらくの間、我々の周囲には有象無象の虫除けになる効果も期待できる。結果的に効率が良い」
「どこがよ。絶対にあいつの仲間が『始祖様バンザイ』とか言って大挙して押し寄せてくるパターンじゃないの。わたしの平穏な旅行計画をどうしてくれるのよ」
わたしは統に詰め寄ろうとしたが、その瞬間、身体の奥底から急激な脱力感が襲ってきた。
統の掛けてくれていた強化魔法と絶対防御のバフが、効果時間を終えて切れたのだ。アドレナリンが引いていくと共に、手足に鉛を詰められたような重い疲労がのしかかってくる。
「……あー、疲れた。信じられないくらいお腹が空いた」
わたしの胃袋が、先ほど完食したはずの洗面器サイズの海鮮丼の存在を完全に忘れ去り、空腹を訴える低い音を鳴らした。
あんなに激しく運動(という名の吸血鬼殴り)をしたのだから、カロリーが消費されるのも無理はない。
「統、宿に帰る前にどこかで夜食を……」
わたしが提案しようとした、まさにその時だった。
港の入り口の方角から、複数の慌ただしい足音がこちらに向かって駆け込んでくるのが聞こえた。
鉄の鎧が擦れる音と、荒い息遣い。
暗闇の中から姿を現したのは、長旅の疲労で顔を土気色にした三人の男女だった。
先頭を走っているのは、赤茶色の髪を乱した女剣士。
その後ろに、双剣を構えたネコミミの獣人と、無表情だが明らかに息の上がっている長身の男。
王国監査院の猟犬にして、わたしたちのストーカー兼お目付け役。
アリアさん、ベルロウさん、ノッピーニオさんの三人組だ。
「……見つけたわよ、この歩く大厄災ども!」
アリアさんが、腰の短剣を抜いたまま、夜空を切り裂くような大声で叫んだ。
彼女の視線は、無傷で立っているわたしたちと、そして先ほどの戦闘の余波でひどく抉れ、亀裂だらけになっている港の石畳を交互に行き来している。
「あなたたちねえ! 私たちが王都から死に物狂いで馬を飛ばしてきている間に、勝手に地方の権力闘争に介入して公爵を社会的に抹殺した挙句、今度は港のど真ん中で地形が変わるレベルの魔力衝突を起こすって、一体どういう神経してるのよ!」
アリアさんの怒声は、悲鳴に近い響きを帯びていた。
無理もない。彼女の立場からすれば、監視対象が次から次へと国家規模のトラブルを引き起こし、しかも事後処理だけを押し付けられているようなものなのだから。
「あ、アリアさん。奇遇ですね。こんな夜更けに海風を浴びてのお散歩ですか?」
わたしは努めて爽やかな、無実の市民を装った笑顔を浮かべて挨拶をした。
「白々しい挨拶はいいから! 今ここで何が起きていたのか、そのクレーターは誰が開けたのか、一から十まで説明しなさい!」
アリアさんが短剣の切っ先をこちらに向けて詰め寄ってくる。
隣のベルロウさんも、鼻をひくつかせながら周囲を警戒している。
「血の匂いと、とんでもなく濃密な闇の魔力の残り香がする。ただの喧嘩じゃないね、これは」
専門家の獣人にはごまかしが効かないらしい。
わたしは困ったように首を傾げ、隣の統をチラリと見た。
統は完全に視線を海の方へ逸らし、「我関せず」という態度を貫いている。またしてもわたしに説明の義務を丸投げする気だ。この弟、本当に性格が歪んでいる。
「いやあ、それがですね」
わたしは頭を掻きながら、最高に無害な女子高生を演じてみせた。
「散歩していたら、ちょっとマントを着た怪しいお兄さんに絡まれまして。弟が変な手品で脅かしたら、お兄さんが転んで石畳に頭をぶつけて、そのまま恥ずかしそうに逃げていっちゃったんですよ。いやあ、物騒な世の中ですよね」
「んなわけあるか! どんな手品を使えば石畳が爆心地みたいに抉れるのよ!」
アリアさんの鋭いツッコミが夜の港に響き渡る。
ノッピーニオさんが、疲れた様子でアリアさんの肩に手を置き、もう諦めろと首を振っている。彼が一番、この状況の不毛さを理解しているのかもしれない。
「まあまあ、アリアさん。公爵の陰謀も潰れて、街に平和が戻ったんだから、結果オーライじゃないですか」
わたしは話を強引にまとめにかかった。
「それに、お腹空きません? 王都からずっと走ってきたんでしょ。私が美味しい夜食の店に案内しますよ。この街、今日からお魚がすごく美味しくなったんです。女将さんの作る海藻のスープも絶品ですし」
「……経費で落としてくれるんでしょうね」
アリアさんが、恨めしそうにわたしを睨みながら、短剣を鞘に収めた。
どうやら、空腹と疲労が彼女の追及の気力を上回ったらしい。
「もちろん。弟の財布から出させますから、安心してください」
わたしは統の肩を軽く叩いた。
統は無言でわたしの手を払い除けたが、異議を唱えることはなかった。
こうして、ダイスロープにおけるわたしたちの騒動は、文字通り嵐のように過ぎ去り、そして強引に幕引きを迎えることになった。
王弟公爵の政治的野望は完全に潰え、彼の私設造船所や不正な資金源も、遠からず監査院のメスが入ることだろう。
海軍の若い士官ビクトルは、自分の信じる誇りを胸に、これからもこの街の海を護っていくはずだ。
ミケーネや孤児たち、そしてリベットのおじさんも、明日からは暗い夜の海を恐れることなく、太陽の下で堂々と生きていける。
街灯の光が届き始めた大通りを、アリアたちと連れ立って歩く。
ふと夜空を見上げると、分厚い雲が風に流され、二つの美しい月が顔を覗かせていた。
勘違いをこじらせて逃げ帰ったアシュドラの件は、今後の旅の不安要素として残ってしまったけれど、今は考えるのをやめよう。
美味しいものを食べ、よく眠り、そしてまた新しい街へと歩き出す。
それが、わたしと統の旅のルールなのだから。
「さあ、夜食の後は次の目的地の会議よ。アリアさんも付き合ってくださいね!」
わたしの明るい声に、アリアさんがこの世の終わりのような深いため息を吐いた。
鉄と潮風の街、ダイスロープ。
最初は息苦しいだけの軍事要塞だと思っていたけれど、離れる前にもう一度、あの美味しい特大海鮮丼を食べに戻ってきてもいいかもしれない。
わたしの胃袋は、すでに次の食事のメニューを組み立て始めながら、愉快なリズムを刻んでいた。




