68、触れてはならない逆鱗
「なんだ、そのガキは」
アシュドラの声が、先ほどまでの甘ったるいオペラ歌手のような響きから、路地裏で汚物を踏みつけた貴族のような冷酷なそれに変わった。
彼の真紅の視線が、わたしの隣にいる統を、頭のてっぺんから足の先まで値踏みするように撫で回している。
統は相変わらず、無表情の極みだ。コンビニのレジ横にある募金箱くらい、感情の起伏というものが存在しない。
アシュドラの美しくも禍々しい顔に、明確な不快感の皺が寄った。
「私がこれほど近くにいるというのに、恐れもせずに立っているとは。恐怖という概念すら持ち合わせていないのか。……いや、違うな」
アシュドラは勝手に一人で納得したように、冷笑を浮かべた。
「あまりの格の違いに、魂が理解を拒絶しているのだな。哀れな人間よ。我が同胞たる高貴な純血の隣に、なぜそのような脆弱な肉の塊が侍っている?」
肉の塊、ときた。
わたしはこめかみのあたりがピクッと引き攣るのを感じた。
確かに統の見た目は小学校中学年くらいの、線の細い可愛らしい少年だ。でも中身は、あんたみたいな自称「夜の支配者」を小指の先で消滅させられる、宇宙規模の災害指定レベルのバグキャラなんだけど。
「おい、同胞よ」
アシュドラがわたしに向かって、芝居がかった手つきで統を指差した。
「血を引けなかった出来損ないか? それとも、旅の途中で喉を潤すための、ただの携帯食料か?」
出来損ない。携帯食料。
その単語が耳に届いた瞬間、わたしの胃の腑のあたりで、何かが冷たく重い石に変わるような感覚があった。
痛い中二病患者へのドン引きという感情が、急速に別の色に塗り替えられていく。
「あのね、お兄さん」
わたしは努めて冷静な、というよりドスの利いた声を絞り出そうとした。
「この子はわたしの……」
「姉上。素晴らしい殿方ですね」
わたしの言葉を遮って、隣から恐ろしく平坦な声が発せられた。
統だ。
彼は、顔の筋肉を一切動かさず、棒読みの極致とも言える抑揚のない声で喋り始めたのだ。
「私のような無力な人間には、姉上を守ることはできません。どうか私のことは構わず、その方とお幸せになってください。私は身を引きます。さようなら」
おい。
ちょっと待て。
わたしは信じられないものを見る目で統を凝視した。
売った。こいつ、今わたしを確実に売った。
自分より圧倒的に格下の相手の、面倒くさくて痛々しいポエムに付き合うのが嫌になったからといって、適当な三文芝居で全部わたしに丸投げしようとしているのだ。
しかも芝居が下手すぎる。学芸会で木の役をやっている小学生の方が、まだ感情がこもっている。
「ちょっと、統! あんた何言ってんの! 棒読みすぎるでしょ!」
わたしが小声で抗議するが、統は完全に明後日の方向を見たまま、微動だにしない。彼はすでに「健気に身を引く弟」という設定のプログラムを実行し終え、スリープモードに入ってしまったらしい。
しかし、信じがたいことに、この学芸会以下の三文芝居が、アシュドラの痛々しい脳内フィルターを通ると、劇的なメロドラマのワンシーンに変換されてしまったようだ。
「……ほう」
アシュドラは、まるで悲劇の主人公を見るような、陶酔しきった目を細めた。
「脆弱な人間なりに、自らの矮小さを理解しているというわけか。身の程を弁え、姉の幸福のために身を引く。その健気な心意気だけは、褒めてやろう」
嘘でしょ。通じちゃったよ。
この吸血鬼、見た目は国宝級の美形なのに、脳みそは完全にメロドラマの再放送で構成されているんじゃないか。
「だが」
アシュドラの声のトーンが、一段階下がった。
結界内の空気が、急激に温度を奪われていく。彼から発せられる魔力が、殺意という明確な形を持って周囲の空間を圧迫し始めたのだ。
「純血たる貴様が、そのような下等生物に情をかけ、足枷にしているという事実は見過ごせない。我ら『古き者』の誇りに対する、これは明確な冒涜だ」
アシュドラは、優雅な仕草で右手を軽く持ち上げた。
彼の指先に、周囲の闇が凝縮されていく。光を一切反射しない、鋭利な刃の形をした漆黒のエネルギー体。それが統の小さな身体に真っ直ぐ照準を合わせた。
「同胞よ。貴様の美しい魂を曇らせるその脆弱な鎖、この私が慈悲をもって断ち切ってやろう」
冗談じゃない。
わたしは全身の毛が逆立つほどの怒りを覚えた。
統なら、あんな中二病エフェクトの攻撃、瞬きする間に無効化できる。そもそも、彼にダメージを与える手段など、この世界のどこを探しても存在しないはずだ。彼にとっては、そよ風が吹いた程度の刺激にすらならないだろう。
それは、理屈では完全に理解している。
統は無敵だ。わたしなんかが心配する必要は、一ミリもない。
でも、それとこれとは、まったく別の話なのだ。
わたしの弟(仮)を。
旅の資金源であり、時には生意気で、絶望的にコミュ障で、でもこの理不尽な世界で唯一、わたしが背中を預けられる存在を。
見ず知らずの、ポエムを垂れ流すだけの痛いおっさんに、ゴミのように見下され、あまつさえ「排除する」と宣言された。
その事実が、わたしの内側にあった「ドン引き」という安全装置を完全に破壊した。
人間の女子高生としての常識とか、平和主義とか、そういう薄っぺらい理性が全部吹き飛び、代わりに吸血鬼としての本能と、「姉」としての理不尽な身内びいきの感情が、マグマのように噴き出してきた。
「消えろ、塵芥」
アシュドラが指を弾いた。
放たれた漆黒の刃が、空気を引き裂きながら、一直線に統の首へと向かって飛来する。
速い。普通の人間なら、瞬きをする間に首が胴体とおさらばしている速度だ。
だが、わたしの身体は、思考よりも先に動いていた。
腹の底で鳴る「深い心臓」が、一気にエンジンの回転数を上げる。
血液が沸騰するような感覚と共に、周囲の時間の流れが極端に遅くなったように感じられた。
飛来する影の刃の軌道が、はっきりと見える。
わたしは統の前に滑り込み、その漆黒の刃に向かって、無造作に右手を振り抜いた。
硬いものが激突する衝撃。
しかし、痛みはない。統が背後からこっそりと、わたしに絶対防御のバフでも掛けてくれたのだろう。わたしの手には、ただ野球のボールを素手で弾き返した程度の痺れが残っただけだった。
影の刃はわたしの手の甲で弾き飛ばされ、明後日の方向の石畳に激突して、音もなく深いクレーターを穿った。
「……なっ」
アシュドラの美しい顔が、初めて驚愕に歪んだ。
自分の放った必殺の一撃が、か弱い同胞(と勘違いしている女)の素手によって、ハエでも払うように弾き飛ばされたのだから、無理もない。
結界の中に、不気味なほどの静寂が落ちた。
わたしは、ゆっくりと右手を下ろし、アシュドラを真っ直ぐに睨み据えた。
さっきまでの愛想笑いも、困惑も、ドン引きの感情も、顔からは完全に消え失せている。
あるのはただ、絶対零度まで冷え切った、純粋な怒りだけだ。
「……あんたさ」
わたしの口から出た声は、自分でも驚くほど低く、地を這うような響きを持っていた。
「今、わたしの弟に何しようとした?」
「なに……?」
アシュドラは一瞬言葉に詰まり、困惑したように目を瞬かせた。
「同胞よ、なぜそのような下等生物を庇う? そいつは貴様の足枷だ。私が排除してやるのが、我ら純血の……」
「黙れっつってんのよ、この厨二病ポエマー!」
わたしはアシュドラの言葉を、腹の底からの怒声で叩き斬った。
「同胞だの純血だの、さっきから意味のわからないポエムばっかり垂れ流しやがって。世界征服でも夜の支配でも、勝手に一人でやってればいいでしょ。でもね、うちの弟を『出来損ない』だの『ゴミ』だの言うのは、絶対に許さない」
わたしは一歩、アシュドラに向かって踏み出した。
足元の石畳が、わたしの踏み込みの圧力に耐えきれずに亀裂を走らせる。
「こいつはね、確かに愛想はないし、性格は歪んでるし、たまに何を考えてるのか全然わからない、可愛げの欠片もないクソガキよ。でも、わたしの弟なの。わたしがこの世界で、唯一頼りにしてる家族なのよ」
背後で統が「……クソガキとは心外だな」と小さく呟いた気がしたが、完全に無視する。
今、わたしは最高に姉としての見せ場を作っているのだ。邪魔はさせない。
「うちの身内を馬鹿にする奴は、それがどこのどいつだろうと、万死に値するのよ。わかった?」
わたしの言葉を聞き、アシュドラの顔から驚愕の色が消え、代わりに底知れない不快感と怒りが浮かび上がった。
「……嘆かわしい。人間社会の毒に当てられ、そこまで魂が腐り果てていたとは。もはや言葉での説得は無意味か」
アシュドラの周囲に、先ほどとは比べ物にならないほど濃密な闇の魔力が渦を巻き始める。
彼の背後に、巨大な蝙蝠の羽のような影が広がり、周囲の空間そのものが彼を畏怖して震えているようだった。
「ならば、力ずくでその目を覚まさせてやろう。貴様の四肢を砕き、そのガキの血を貴様の目の前ですすり上げて、我が城へ連れ帰ってくれる」
「やれるもんならやってみなさいよ、このコスプレ野郎」
わたしは両拳を目の前で構え、ボクシングのファイティングポーズを取った。
相手は由緒正しい吸血鬼の魔法使い。こちらは前世の記憶と、付け焼き刃の吸血鬼の身体能力、そして背後に控えるチート弟のバフだけが頼りの素人喧嘩殺法だ。
だが、負ける気は一ミリもしなかった。
怒りという最高のガソリンが、わたしの全身を燃え上がらせている。
「統、サポートお願い!」
わたしは背中越しに叫んだ。
「やれやれ。私の芝居のせいで、余計に火をつけてしまったか」
統の呆れたようなため息が聞こえる。
直後、わたしの身体の奥底から、無尽蔵のエネルギーが湧き上がってくるのを感じた。統がわたしの身体能力のリミッターを完全に外し、さらに物理と魔法の絶対防御の結界を上乗せしてくれたのだ。
今のわたしは、素手で戦車をスクラップにできる自信がある。
「いくわよ!」
わたしは石畳を蹴り砕き、アシュドラの懐に向かって弾丸のような速度で突進した。
「愚かな。我ら『古き者』の魔法の前に、物理攻撃など……」
アシュドラが何か呪文のようなものを詠唱しようとしたが、遅い。
圧倒的に、遅すぎる。
統のバフを受けたわたしの速度は、彼が瞬きをするよりも早く、その美しい顔面の目の前へと到達していた。
「ポエムの朗読は家で一人でやってなさい!」
わたしは全身のバネを使い、右の拳にすべての怒りと体重を乗せて、アシュドラの顔面めがけて渾身のストレートを叩き込んだ。
鈍い激突音。
アシュドラの美しい顔が、スローモーションのように無惨に歪む。
彼が展開していたであろう防御魔法の障壁が、ガラスが割れるように粉々に砕け散る感触が拳を通して伝わってきた。
「がっ……!?」
アシュドラの身体は、わたしの拳の威力に耐えきれず、まるで弾き飛ばされたビリヤードの球のように後方へ勢いよく吹っ飛んでいった。
彼は石畳の上を何度かバウンドし、結界の端の目に見えない壁に激突して、ようやく停止した。
「……信じ、られん」
アシュドラは口の端から一筋の血を流し、信じられないものを見る目でわたしを睨みつけた。
「我が絶対の防壁を、素手で打ち砕くだと……? ただの純血種に、これほどの力が……」
彼はまだ勘違いをしているらしい。
わたしの力ではない。背後で暇そうに欠伸をしている、あんたがゴミ扱いしたその小さな男の子の力だ。
わたしは拳を軽く握り直しながら、倒れ伏すアシュドラを見下ろした。
「さあ、第二ラウンドよ。あんたがうちの弟に謝るまで、その綺麗な顔を原型がなくなるまで殴り続けてあげるから、覚悟しなさい」
わたしは首の骨をポキポキと鳴らし、極悪非道な笑みを浮かべて一歩前へ踏み出した。
海鮮丼のカロリーを消費するには、ちょうどいい運動になりそうだ。
ダイスロープの夜は、まだまだ終わらない。




