67、怖いもの知らずの厨二ポエマー
ダイスロープの空から、あの鉛色に澱んだ重苦しい膜が取り払われて数日が経った。
海上封鎖の解除は、干上がっていた街の血管に大量の血液を一気に送り込むような、それはもう劇的な効果をもたらした。朝の港は、行き交う漁船と商船で埋め尽くされ、市場には威勢のいい怒号と笑い声が飛び交っている。
木箱の上には、銀色に輝く魚、殻を固く閉じた貝、そして何かの冗談みたいに巨大な甲殻類が山のように積まれていた。
魚屋のおじさんの顔からは数日前の悲壮感が完全に消え去り、代わりに商売人特有の油ぎった活力がみなぎっている。わたしが店の前を通ると、おじさんはとびきり大きな魚を掲げてウインクを送ってきた。
世界は正しい形に戻ったのだ。
そして、世界が正しい形に戻ったということは、わたしの食欲が正当に満たされるべき時が来たということでもある。
「お待たせ! 女将特製、大漁祝いの特大海鮮丼だよ!」
港の食堂。バイト先だった店の奥のテーブルで、女将さんが両手で抱えるようにして巨大な陶器の鉢を運んできた。
それは、丼というよりもはや洗面器に近い代物だった。
炊きたての酢飯の上には、これでもかという量の海産物が地層のように積み重なっている。透き通るような白身魚、脂の乗った赤身、甘エビの群れ、そして黄金色に輝くウニとイクラの海。
まさに、海の宝石箱。いや、宝石箱なんていう陳腐な表現では足りない。これは、漁師たちの執念と、女将さんの愛情と、わたしの果てしない食欲が融合して生まれた、ひとつの芸術作品だ。
「……神様。わたし、二回死んだけど、今のこの瞬間のために三度目の人生があったのだと確信しました」
わたしは両手を合わせ、海鮮丼という名の御神体に向かって深く祈りを捧げた。
涙腺が緩み、視界が滲む。決して大げさではない。数日前まで芋と干し肉のコロッケで飢えを凌いでいた身からすれば、この光景は奇跡以外の何物でもないのだ。
「大げさな奴だ。ただの魚の死骸の寄せ集めだろう」
向かいの席に座る統が、湯呑み茶碗でお茶を啜りながら、極めて冷淡なコメントを投げかけてきた。彼の前には、わたしが頼んだのと同じ海鮮丼の、通常サイズが置かれている。
この七千歳の吸血鬼は、食事という行為そのものに興味がない。栄養素さえ摂取できれば、木の皮でも靴底でも構わないのではないかと思うほどだ。
「あんたには一生わからないわよ。この一口に込められた、命の連鎖とロマンが」
わたしは統の暴言を華麗に無視し、木製のスプーンでウニとイクラが密集している一帯をすくい上げた。
そのまま、迷うことなく口へ運ぶ。
磯の香りが鼻腔を抜け、濃厚な甘みと適度な塩気が舌の上で弾けた。
酢飯の温度が、刺身の脂を絶妙に溶かしていく。
美味い。
脳の奥底にある快楽中枢が直接刺激され、全身の毛穴という毛穴から幸福の成分が噴き出してくるような感覚だ。
人間は美味しいものを食べると無言になるという法則があるが、今のわたしはまさにそれだった。ただひたすらに、目の前の宇宙と対話する。噛み締め、飲み込み、そしてまた次の具材を口に運ぶ。
赤身のねっとりとした旨味。白身の淡白でありながら奥深い味わい。エビの弾力。
どれを取っても完璧だ。女将さん、本当にありがとう。この街の危機を救った甲斐があったというものだ。
「お姉ちゃん、すごい勢いで食べてるね。喉に詰まらせないでよ」
隣の席から、ミケーネが呆れたような声をかけてきた。
彼女の前にも、お祝いとして通常サイズの海鮮丼が奢られている。獣人の彼女は生魚が大好物らしく、猫耳を小刻みに揺らしながら幸せそうに白身魚を頬張っていた。
もう、危険を冒して夜の海に密輸の小舟を出す必要はない。彼女の弟分たちも、今日はお腹いっぱい配給の魚を食べているはずだ。
「ミケーネ。あんた、あたしの顔を見ながらご飯を食べるんじゃないわよ。魚に集中しなさい。命に感謝して」
わたしは口の中のものを飲み込み、真顔で説教した。
「なんだか、お姉ちゃんの方がよっぽど獣みたいに見えるんだけど」
ミケーネは肩をすくめた。
向かいの席では、リベットのおじさんが昼間から冷えた麦酒のジョッキを傾けている。彼の顔色は数日前と比べて見違えるほど血色が良く、目の奥には職人としての光が戻っていた。
「いやあ、しかし見事な悪ふざけだったな。あんなでかい字で公爵の嘘をバラすなんて、俺の長い人生でも一番痛快な見世物だったぜ」
リベットのおじさんは、麦酒の泡を髭にくっつけたまま豪快に笑った。
「おじさんの仕掛けが完璧だったからよ。船の足止めのタイミングといい、帆の広がり方といい、あれは芸術的だったわ」
わたしが賞賛すると、おじさんは照れ隠しのように鼻の頭を擦った。
「俺の技術はあくまで裏方さ。あんな度胸のある真似、まともな人間にはできやしねえ。お前さんたちのおかげで、この街は救われたんだ。本当に、感謝してるぜ」
おじさんは手元のジョッキを高く掲げた。
それを合図に、食堂の中にいた漁師たちや水兵たちも、一斉にジョッキや湯呑みを掲げる。
彼らもうっすらと事情は察知しているようだ。
「早朝港に集合。面白いものが見られるよ」ってわたしが声掛けしたし、当然、わたしが関わっているのはバレバレなんだと思う。
「嬢ちゃんたちに、乾杯!」
「海賊退治の英雄に、乾杯だ!」
割れんばかりの歓声が食堂を包み込んだ。
わたしは少しだけ頬を熱くしながら、残っていた海鮮丼を無心で掻き込んだ。
英雄なんて柄じゃない。わたしはただ、美味しい魚が食べたかっただけで、統は被害の計算をしただけで、結果的に街が助かったのは偶然の産物に近い。
でも、彼らの笑顔を見ていると、結果オーライで良かったと心底思えた。
その日の夜。
洗面器サイズの特大海鮮丼を完食し、胃袋の限界に挑戦したわたしは、腹ごなしのために夜の港を散歩することにした。
統も「お前が動けなくなって転がっているのを運ぶのは御免だ」という理由で同行している。
街灯に火が灯り、活気を取り戻したダイスロープの夜は、数日前とは別の街のように明るかった。
しかし、港の奥、かつてあの黒い船が停泊していた軍用ドックのあたりまで足を伸ばすと、途端に人影が途絶え、静寂が支配する空間になる。
潮騒の音と、停泊している船が波に揺れて軋む音だけが、等間隔で耳に届く。
腹いっぱい食べた満足感と、心地よい夜風。
わたしは大きく背伸びをして、深い深呼吸をした。
「さて、明日にはこの街を出るわよ。次はどこへ行こうか」
「お前の食欲が満たされるなら、どこでもいい」
統は相変わらずの塩対応だ。
「もっと言い方があるでしょ。姉に対する敬意とか、旅のロマンとか」
わたしが文句を言おうと振り返った、その時だった。
波の音が、消えた。
耳を塞がれたわけではない。音そのものが、空間から切り取られたように消失したのだ。
同時に、足元の石畳に落ちていた月明かりの影が、不自然な角度に歪んだ。水面に垂らしたインクのように、闇が渦を巻いて広がっていく。
腹の底にある「深い心臓」が、警鐘を鳴らすように重いリズムを刻み始めた。
冷たいものが背筋を駆け上がる。
これは、知っている。
普通の人間が放つ気配ではない。統が時折見せるような、世界から完全に切り離された、絶対的な力を持つ者の領域。
結界だ。
わたしたちは、完全に外界から遮断された空間の中に引きずり込まれたのだ。
「……統」
わたしは警戒して身構えた。
統は、特に驚いた様子もなく、ただ面倒くさそうに薄い眉をひそめている。
「厄介な羽虫が迷い込んだな」
統が虚空に向かって呟いた直後。
空間に生じた闇の渦から、一人の男が姿を現した。
いや、男と呼んでいいのか迷うところだ。
舞台演劇の衣装でもそこまでやらないだろうというくらい、過剰な装飾が施された漆黒の外套。雪のように蒼白な肌。そして、血の池を凝縮したような真紅の瞳。
顔の造作は、神様が定規とコンパスを使って緻密に計算したのかと思うほど整っているのだが、その美しさが逆に作り物めいた不気味さを醸し出している。
男は、まるでそこに赤い絨毯が敷かれているかのような優雅な足取りで、わたしたちの数歩手前まで歩み寄った。
「素晴らしい」
男が、朗々と歌い上げるような声で第一声を発した。
「まさか、このような腐臭漂う人間の掃き溜めにおいて、これほどまでに芳醇な闇の気配に出会えるとは。私の永きにわたる退屈も、今日この夜のために用意されていた余興だったのだな」
男は自分の額に手を当て、天を仰ぐような大げさなポーズを取った。
どこからツッコミを入れていいのかわからない。
わたしは半ば口を開けたまま、その一挙手一投足を見守るしかなかった。
「驚くのも無理はない」
男は勝手にこちらの沈黙を解釈し、芝居がかった手つきで自分の胸に手を当てた。
「私はアシュドラ。我ら『古き者』の純血にして、夜の世界の真なる支配者の一柱。そして、お前の同胞だ」
同胞。
その単語に、わたしは首を傾げた。
「あの、同胞って……どういう意味ですか?」
「隠す必要はない。港で下等な人間どもに見せつけたあの魔力、私にははっきりと見えていた。お前は、人間などに交じって生きるべき存在ではない。その高貴なる血を、こんな辺境の泥水で薄めるのは大いなる損失だ」
アシュドラと名乗った男は、一歩前へ出た。
その真紅の瞳が、熱を帯びた視線でわたしを真っ直ぐに射抜いている。
「私と共に来い、美しき同胞よ。脆弱な人間どもを見捨て、古き者の誇りを取り戻すのだ。お前は私の伴侶となり、共にこの退屈な世界を夜の色に染め上げようではないか」
沈黙。
海風さえ吹かない結界の中で、彼の熱烈なセリフだけが虚しく響き渡った。
ロマンチックな求婚、あるいは闇の世界への甘美な誘い。
普通のファンタジー小説のヒロインなら、ここで頬を染めて戸惑うか、悲壮な顔で運命に抗うところなのだろう。
だが、あいにくとわたしの前世は、日本の平和な環境で育った女子高生だ。
この手の過剰な自己演出と、ポエムめいた長台詞を見せられた時に抱く感情は、ひとつしかない。
(……え、何この痛い人)
わたしの脳内は、極めて冷静に目の前の存在を分析していた。
古き者? 夜の支配者?
言っていることの半分も理解できないが、要するに「俺とお前は特別な存在だから一緒に世界を征服しようぜ」という、思春期特有の万能感を引きずったまま大人になってしまったタイプの人間(吸血鬼だけど)だ。
前世で深夜アニメや中二病全開のライトノベルを嗜んでいたクラスの男子が、そのままのテンションで三次元に飛び出してきたような感覚。
新手のホストか。それとも怪しい宗教の勧誘か。
どちらにせよ、関わり合いになりたくない人種であることだけは確かだ。
わたしは顔の筋肉を引き攣らせながら、隣の統を見た。
頼りになる最強の保護者である彼は、わたしを助けるどころか、まるで路上で配られているティッシュペーパーを無視するような、完全な無関心と侮蔑の入り混じった目でアシュドラを見つめていた。
「あのさ、お兄さん」
わたしはできるだけ穏便に、角が立たないように言葉を選んだ。
「お誘いはありがたいんですけど、わたし、世界征服とか夜の支配とか、そういうの全然興味ないんで。今日の夕飯の海鮮丼で人生の満足度マックスなんで、間に合ってます。お引き取り願えませんか?」
丁寧な口調の裏に「さっさと帰れ」という強い意志を込めたつもりだった。
だが、自己完結型のポエマーには、他者の拒絶の言葉は別の意味に変換されて届くらしい。
「ふふ……警戒するのも無理はない。長く人間社会に潜伏していたせいで、魂が鈍ってしまったのだな。だが安心しろ。私がその呪縛から解き放ってやろう」
アシュドラは哀れむような笑みを浮かべ、さらに一歩、距離を詰めてきた。
会話が通じない。
言葉のキャッチボールが成立せず、相手が投げた豪速球がそのままわたしの顔面に直撃しているような状態だ。
面倒くさい。
美味しい海鮮丼を食べて、今日はふかふかのベッドで気持ちよく眠る予定だったのに。なんで食後の腹ごなしに、痛い吸血鬼の相手をしなければならないのか。
わたしは大きなため息を吐き、隣の統を肘で小突いた。
「統、どうにかしてよ。あんたの同業者でしょ、これ」
わたしの言葉を受け、統はゆっくりと視線をアシュドラに向けた。
そして、アシュドラもまた、わたしの隣にいる「ただの子供」の存在に、ようやく気づいたようだった。
「……ん?」
アシュドラの美しい顔に、わずかな不快感がよぎる。
その視線が、統の小さな身体を上から下まで無遠慮に舐めるように動いた。
「なんだ、そのガキは」
アシュドラの声から、先ほどの優雅な響きが完全に消え去り、冷酷で高圧的な響きに変わった。
それが、これから始まる惨劇の引き金になることを、彼はまだ知る由もなかった。




