65、吸血鬼の花嫁
【リッチー・タイクーン公爵のターン】
王弟リッチー・タイクーン公爵の執務室は、さながら嵐が過ぎ去った後の陶器店の様相を呈していた。
壁には年代物の高級ワインが瓶ごと叩きつけられ、赤黒い染みが抽象画のように広がっている。床には粉々になったクリスタルグラスの破片が散乱し、マホガニー製の重厚な執務机は無残に蹴り倒されていた。
公爵は肩で息をしながら、両手で頭を抱えていた。
血圧は限界を突破し、こめかみの血管は今にも破裂しそうに脈打っている。
怒り。屈辱。そして、理解不能の事態に対する強烈な混乱。
「あの馬鹿どもがああああ!」
喉の奥から絞り出すような咆哮が、防音仕様の厚い扉を揺らした。
事の起こりは、数時間前の朝に遡る。
公爵は城塞のバルコニーから、自らの野望を乗せた黒い船が軍用ドックを出ていくのを、極上の気分で見下ろしていた。
隣の商業都市ボーダーを経済的に干上がらせ、自分の支配下に置く。そのための海上封鎖だ。海軍上層部にはたっぷりと賄賂を握らせ、「海賊の脅威」という大義名分をでっち上げた。公爵の私兵を偽装海賊として海に放ち、見せしめに密輸の小舟を沈めれば、ボーダーの町は完全に屈服するはずだった。
計画は完璧だった。王座を継げなかった日陰者の自分が、兄である現国王の喉元に突きつける、最高に鋭利な刃になるはずだったのだ。
ところが。
沖合に出た船が突然傾き、メインマストに帆が張られた瞬間、すべては瓦解した。
海風を受けて広がった巨大な帆に、何が書かれていたか。
『我ら、タイクーン公爵様のカワイイ私兵! ボーダーの町をイジメるための偽海賊でござる! お魚止めてごめんなさい!』
公爵は、その文面を思い出すだけで、胃液が逆流するような強烈な吐き気を覚えた。
なんだあれは。
なんだあの、ふざけきった、間抜けで、脱力感に満ちた、致命的な暴露文は。
カワイイ私兵だと? イジメるためだと? お魚止めてごめんなさいだと?
軍の威厳も、王族としての誇りも、陰謀の冷徹さも、すべてが台無しだ。街中の民衆や海軍の兵士たちの前で、自分は「魚を止めていじめる悪いおじさん」に成り下がってしまったのだ。しかも、絶望的にダサい形で。
群衆の爆笑。
そして、それに続く怒号。
血気盛んな若造の海軍士官(カイシュだかクァイシュだかという名だったか)が剣を抜き、上官の制止を振り切って正規の軍艦を動かし「賊」を拿捕しに向かったとき、公爵は本気でバルコニーから身を投げようかと考えたほどだ。
「閣下……お気を確かに……」
部屋の隅で、生きた心地のしない顔で控えている側近が、震える声で言葉を絞り出した。
「気を確かにだと? この私が正気でいられると思うか!」
公爵は手近にあった銀製の燭台を掴み、側近の足元に力任せに投げつけた。金属が石の床にぶつかって嫌な音を立てる。
「あの船に乗っていた愚か者どもは、全員捕縛されたのだろうな!」
「は、はい。クァイシュ中尉の部隊に無血で拿捕されまして、現在、海軍の尋問を受けております。……その、船底には精巧な時限式の浸水装置が、マストには特殊な塗料を染み込ませた仕掛け帆がセットされていたと報告が……」
「誰がやった! 我が私設造船所で極秘に組ませた船だぞ。あんなふざけた真似を、誰が仕掛けたというのだ!」
「それが……警備の兵の証言によれば、昨夜、子供の影をドックの近くで見たと……」
「子供だと?」
公爵は深く眉をひそめた。
子供であれば、あの知性を感じさせない文面。所々にあるスペルの間違い。納得はできる。
そういえば、先日オーミの代官を務めていた愚息が、不正の証拠を監査院に握られて失脚したという報告を受けた際にも、得体の知れない「姉弟」の存在が仄聞された。
そして今、このダイスロープでも子供の影。
偶然とは思えない。誰かが、何らかの意図を持って、自分の派閥を徹底的にコケにしに来ているとしか思えなかった。
「……ええい、今は犯人探しなど後回しだ! まずはこの火の粉を払わねばならん!」
公爵は大きく息を吸い込み、乱れた衣服を整えながら、冷酷な政治家の顔を取り戻そうと努めた。
「公式発表を急げ。あの船は、正体不明の海賊に乗っ取られたものだ。乗っていた私兵どもは、命令に背き、海賊に唆されて略奪行為に走った裏切り者である、とな」
いわゆる、トカゲの尻尾切りである。
権力者の常套手段だ。証拠などいくらでも捏造できる。あの暴露帆のメッセージも、「私を陥れるための海賊の卑劣な罠である」と言い張ればいい。公的な書面の上では、これで私は完全に被害者となる。
「で、ですが閣下。あの帆の文字を、街中の人間が見ております。それに、王都の監査院のウイロウ侯爵や、国王陛下の耳に入れば……」
「わかっている!」
公爵は苛立たしげに吐き捨てた。
そうだ。公的には無傷を装えても、政治的なダメージは計り知れない。
“自分の私兵を海賊にでっち上げ、挙句の果てに民衆の前で大恥をかいた無能な王弟”
そのレッテルは、これからの権力闘争において致命的な弱点となる。監査院の老狸ウイロウは、この報告を聞いて腹を抱えて笑っているに違いない。
オーミの愚息に続き、自分まで泥を塗られたのだ。
許せない。
断じて、許せない。
「……殺す」
公爵は、血走った目で虚空を睨みつけた。
「私の顔に泥を塗った奴らを、一人残らず探し出して、最も苦痛を伴う方法で殺してやる。……そうだ、私にはまだ『あれ』がいる」
公爵がその存在を思い出したとき、部屋の空気が、不自然なほど急激に冷え込んだ。
先程まで怒号の熱気に包まれていた執務室が、一瞬にして氷室のように凍てつく。
窓の外はまだ明るいはずなのに、部屋の中だけが深い夜の底に沈んだような錯覚を覚えた。側近は寒気に耐えきれず、白目を剥いて気絶してしまった。
「呼んだかな、人間」
声は、公爵の背後から聞こえた。
そこには何もなかったはずだ。壁と、叩き割られたワインの染みがあるだけだったはずの空間に、一人の男が立っていた。
いや、男と呼ぶべきかどうかも疑わしい。
闇そのものを紡いで作られたような漆黒の外套。
雪よりも蒼白な肌。
そして、血よりも鮮やかな真紅の瞳。
芸術家が狂気に駆られて生み出したような、人間離れした美しさと、直視するだけで魂がすり減るような禍々しさを同時に備えた存在。
『古き者』の純血種。
アシュドラ。
この世界の裏側、歴史の影で暗躍する本物の吸血鬼の一族。彼らは神話の時代から存在し、人間など家畜か虫けら程度にしか思っていない。
公爵は数年前、とある古代遺跡の探索権と引き換えに、このアシュドラと「協力関係」を結んだ。彼らは人間社会の権力など意に介さないが、時折「退屈しのぎ」として人間の政治に手を貸すことがある。公爵にとってアシュドラは、どんな暗殺者よりも確実で、証拠を残さない、最強の手駒だった。
……少なくとも、公爵自身はそう思い込んでいた。
「アシュドラ! 遅いぞ!」
公爵は恐怖を強がりで塗りつぶし、傲慢な態度で声を張り上げた。
「港でのあの不手際を見ていただろう! 私に恥をかかせたネズミどもが、この街のどこかに隠れているはずだ。子供の姿をした姉弟だという噂がある。今すぐ探し出し、四肢を切り刻んで私の前に引き摺り出せ!」
公爵は命令した。
金と権力を持つ自分が主人であり、相手は便利な殺し屋であるという、滑稽なまでの勘違いに立脚した命令だった。
アシュドラは、感情の読めない真紅の瞳で公爵を見下ろした。
薄い唇が、三日月のように歪む。
「……命令、だと?」
その声は、囁くように静かだった。
だが、次の瞬間。
公爵の全身を、目に見えない巨大な圧力が押し潰した。
「ぐっ……!?」
公爵は両膝を床に突き、そのまま石の床に顔面を擦り付けた。
息ができない。
肺が潰れ、心臓が握り潰されそうになる。
魔法ではない。単なる「存在の格」の違いから生じる、圧倒的なプレッシャーだ。
アシュドラがわずかに殺気を漏らしただけで、王弟という人間社会の頂点に近い男が、惨めな姿で床に這いつくばらされたのだ。
「勘違いをするなよ、下等生物」
アシュドラは、床でもがく公爵を見下ろしながら、冷酷な声で告げた。
「私が貴様のつまらぬ遊戯に付き合ってやっていたのは、ひとえに退屈を紛らわせるためだ。寿命という砂時計に怯え、狭い箱庭で権力という名の泥を奪い合う貴様らの姿は、喜劇としてはそれなりに楽しめた。……だが、演目が退屈になれば、劇場を出るまでだ。私に指図をするなど、身の程を知れ」
「あ……が……っ」
公爵は声すら出せない。
自分がどれほど取り返しのつかない相手と取引をしていたのかを、今更になって骨の髄まで理解した。この男は手駒ではない。触れてはいけない、本物の災厄だ。
このまま殺される。公爵が死を覚悟したとき、不意にその圧力が消え去った。
むせ返りながら顔を上げると、アシュドラは窓の外――ダイスロープの街を見下ろしていた。
「それにしても……驚いたな」
アシュドラの瞳が、恍惚とした光を帯びて細められる。
「あの港で放たれた、あのふざけた仕掛け。あの程度の魔法なら、人間の魔術師でも再現は可能だろう。だが……あの瞬間に大気を震わせた、底知れぬ魔力の残滓」
アシュドラは、自らの血をたぎらせるような熱を帯びた声で呟いた。
「人間のものではない。あれは、我ら『古き者』の純血と同等……いや、それ以上に濃密で、芳醇な匂いがした」
公爵には、彼が何を言っているのかまったく理解できなかった。
だが、アシュドラの興味が、すでに自分やこの街の権力争いから完全に離れてしまったことだけはわかった。
「こんな人間の掃き溜めに、愛らしい同胞が隠れ住んでいたとはな。数百年ぶりの、胸が躍るような高揚だ」
アシュドラは、狂気じみた笑みを浮かべた。
彼の脳内では、すでに「港の工作を行った正体不明の同胞」を、自分に見合う伴侶としてスカウトするロマンチックな計画が組み上がっているようだった。
「待て……どこへ行く、アシュドラ!」
公爵が掠れた声で引き留めようとしたが、アシュドラは振り返ることもなかった。
「貴様の役目は終わりだ、人間。事の顛末の言い訳でも考えながら、監査院の猟犬どもに尻尾を振る準備でもしておくことだな。……私は、私の花嫁を迎えに行く」
意味不明な詩のような台詞を残し、アシュドラの姿は影が溶けるようにして執務室から完全に消え去った。
後には、破壊された調度品と、床に這いつくばったまま震える初老の男だけが残された。
絶対的な権力を持っていたはずの自分が、たった数日で、得体の知れない子供たちと、自分の手には負えない化け物によって、すべてを台無しにされたのだ。
「おのれ……おのれえええええっ!」
リッチー・タイクーン公爵の惨めな絶叫が、誰の耳にも届くことなく、冷たい石の壁に虚しく吸い込まれていった。
彼の苦い葡萄の味のする権力闘争は、ここで実質的な終わりを告げたのだ。
そして舞台は、人間の思惑を置き去りにして、さらに規格外の「闇の者たち」の邂逅へと移っていく。
その先に待っているのが、血で血を洗う凄惨な闘争なのか、それとも女子高生の鉄拳による理不尽なまでの暴力なのか。
今はまだ、誰も知る由もなかった。




