58、鉄と潮風の街、ダイスロープ
城塞都市ダイスロープ。
その名の通り、街全体が巨大な要塞のようだった。
海に面した断崖の上に築かれたその都市は、陸側を分厚い城壁で囲まれ、海側には無数の砲台が睨みを利かせている。
灰色の石積み。
鉄の門。
はためく軍旗。
どこを見ても「質実剛健」という四文字熟語が服を着て歩いているような街だ。テンペタ・フロップスの優雅さとは対極にある、鉄と潮風の匂いがする軍事都市。
門番のチェックは、フラットワンドよりもさらに厳重だった。
しかし、統の用意した「完璧な偽造通行証」と、わたしの「可哀想な難民少女」の演技によって、どうにかこうにか潜入に成功した。
「ねぇ、通行証どうしたの? 持ってたならフラットワンドでも出せばよかったのに」
「作った。フラットワンドで見たものを真似したからな」
そうだった。統だった。
深くは考えない。スムーズに街に入れたことを喜んでおこう。
「鉄と潮風の街」というキャッチフレーズは、旅行パンフレットならロマンチックに響くかもしれないけれど、実際に足を踏み入れてみると、ただの息苦しい軍事要塞でしかなかった。
しかし、わたしの脳内は「海鮮丼」という三文字で完全に埋め尽くされていた。防壁の圧迫感も、すれ違う兵士たちの物々しい装備も、わたしの食欲の前では単なる背景美術に過ぎない。
「海だ! 港だ! 魚だ!」
私は統の袖を引っ張り、まっすぐに市場へと向かった。
だが、現実はいつだって残酷な脚本家だ。
市場に着いたわたしを待っていたのは、虚無だった。
あの噂は本当だったんだ。
魚屋の屋台は並んでいる。氷を敷くための木箱もある。だが、肝心の主役が不在なのだ。鯛も平目も、タコもイカも、ただの一匹たりとも姿を見せていない。
並んでいるのは、塩の結晶がこびりついた干物や、得体の知れない海藻の塩漬けくらいだ。
魚屋の店主は、まな板を磨くこともなく、虚ろな目で宙を見つめている。
「おじさん、生のお魚は?」
一縷の望みをかけて尋ねてみたが、おじさんは力なく首を振った。
「ないよ。一週間前から、漁船が一隻も海に出られなくなっちまったんだ」
「なんで?」
「海軍様のお達しだ。『海賊が出るから危険だ』ってな。港は完全に封鎖されてる。漁師も商人も、海に出ることを禁じられちまったのさ」
おじさんの言葉は、乾いた砂に水が吸い込まれるように、わたしの心から希望を奪い去っていった。
海賊。海上封鎖。
やっぱり本当だったんだ。もしかしたらって思ってたわたしの希望が無惨に砕け散った。
どこかの映画のテーマパークなら胸躍る言葉かもしれないが、現実世界で、しかもわたしの夕食を脅かす存在として現れたとなれば話は別だ。
「海賊なんて、ここ何十年も見たことがないのによ。おかげで商売あがったりだ。このままじゃ、干物屋に鞍替えするか、いっそ首を括るしか道はないぜ」
店主の深く刻まれた皺の奥に、本物の絶望が潜んでいるのが見えた。
わたしは肩を落として店を離れた。
足取りは、両足に鉄の重りを結びつけられたように重い。
「諦めろ」
隣を歩く統が、氷のように冷たい声で言った。
「状況は聞いた通りだ。封鎖が解かれない限り、新鮮な魚は手に入らん。干物で我慢しろ」
「……嫌だ」
わたしは立ち止まり、固く拳を握りしめた。
「絶対に、諦めない」
ただのワガママかもしれない。でも、この時のわたしの腹の底には、食い物の恨みという最も根源的で恐ろしい怒りが渦巻いていた。
とはいえ、怒りで空腹が満たされるわけではない。
わたしたちは、市場の隅にある薄暗い食堂へと逃げ込んだ。
店の外観は、嵐に三日三晩耐え抜いた難破船のようなボロさだったが、中からは油の揚がる香ばしい匂いが漂ってきていた。
店内には、日に焼けた屈強な男たちが数人、無言でジョッキを傾けている。
わたしたちが席に着くと、厨房の奥から女将さんが現れた。
恰幅が良く、腕まくりをした太い腕には数え切れないほどの火傷の痕がある。肝っ玉母さんという言葉を擬人化したような女性だ。
「いらっしゃい。見ない顔だね。食事かい?」
「はい。何かお腹にたまるものを。できれば、海鮮系で……」
未練がましく言うわたしに、女将さんは同情的な笑みを浮かべた。
「ごめんよ、お嬢ちゃん。魚は一匹も入ってこないんだ。今日は『芋と干し肉のコロッケ』しかないよ。それでもいいかい?」
「……じゃあ、それでお願いします」
運ばれてきたコロッケは、大人の拳ほどの大きさがあった。
熱々のそれを割ると、ホクホクのじゃがいもの中に、細かく刻まれた塩気のある干し肉が混ざっている。
一口食べてみる。
「……美味しい」
魚が食べられない悲しみを差し引いても、素直に美味しいと思える味だった。じゃがいもの甘みと干し肉の塩気が絶妙なバランスで、安っぽい油の匂いさえもスパイスになっている。
「だろう? 魚がないなら、陸の物でどうにか腹を満たしてやるしかないからね」
女将さんは自慢げに笑い、わたしたちのテーブルに冷たい水を置いてくれた。
「でも、こんな日がいつまでも続いたら、アタシの店もどうなるかわからないよ」
女将さんの声のトーンが、少しだけ落ちた。
「海上封鎖の影響?」
統が短い言葉で水を向ける。
「そうさ。海賊が出たとかで、港が閉まっちまった。漁師たちは海に出られないから日銭が稼げない。海軍の水兵たちだって、出撃命令が出ないからって港でくすぶってる。おかげで街中、暇を持て余した男たちのイライラが充満してるんだ」
女将さんは、店の隅で飲んでいる男たちを顎でしゃくった。
「あの人たちも、普段なら海の上で汗を流してる漁師だよ。仕事がなくて、なけなしの金で昼間から酒をあおるしかないのさ。夜になれば、鬱憤晴らしの喧嘩があちこちで起きる。街の灯り用の油だって、海から入ってこないから節約しろってお達しだ。夜は真っ暗闇さ。……この街はね、海が死ねば、一緒に死ぬんだよ」
女将さんの言葉には、深刻な響きがあった。
わたしはコロッケを飲み込み、黙って下を向いた。
さっきまで、自分の海鮮丼のことしか考えていなかった自分が少し恥ずかしくなった。
わたしにとって魚は「旅行の楽しみ」でしかない。でも、この街の人たちにとって、海が閉ざされることは「生活の終わり」を意味しているのだ。
権力者たちがどんな思惑でこの封鎖を仕掛けたのかは知らない。
でも、その皺寄せは、こうして名もなき人々の胃袋と心に直撃している。
「……ひどいね」
わたしはポツリと呟いた。
「まったくだよ。偉い人たちの考えることは、アタシらにはわからないね」
女将さんは肩をすくめ、厨房へと戻っていった。
わたしは残りのコロッケを無言で平らげた。味は良かったはずなのに、最後の一口は妙に苦く感じられた。
その日の夜。
女将さんの言った通り、街は不気味なほど暗かった。
街灯には火が灯されず、家々の窓から漏れる微かな光だけが頼りだ。夜空に浮かぶ二つの月がなければ、自分の足元すら見えないだろう。
わたしと統は、闇に紛れて港を見下ろす高台へと向かった。
目的は、海上封鎖の現状視察、そしてその元凶の確認だ。
吸血鬼の視力は、暗闇の中でも昼間のように景色を捉えることができる。
港には、王国海軍の巨大な軍艦が何隻も停泊し、まるで鉄の壁のように海を塞いでいる。
そして、その軍艦の群れから少し離れた場所に、一隻だけ異質な船が係留されていた。
軍船特有の装飾も、国旗もない。黒く塗られた不気味な船体。
あれが噂の「海賊船」だというのか。それとも、海軍が鹵獲した船か。
いや、違う。あの船の周囲を歩いているのは、海軍の制服を着た兵士ではない。私服に身を包んだ、柄の悪い男たちだ。
「……あれ、怪しくない?」
わたしは小声で統に尋ねた。
「ああ。偽装だろうな。海賊をでっち上げるために用意された、公爵の私兵の船だ」
統は、感情の読めない声で分析した。
「タイクーン公爵。現国王の弟。彼が隣の商業都市ボーダーへの物流を断ち、経済的に締め上げるために自作自演の海賊騒ぎを起こしている。状況証拠としては十分すぎる」
「最低。自分の権力争いのために、街の人たちを巻き込むなんて」
わたしはギリッと奥歯を噛み締めた。
昼間に見た、魚屋のおじさんの絶望した顔。女将さんの諦めきった顔。
それが脳裏をよぎる。
「ねえ、統」
わたしは暗闇の中で、統の袖を引っ張った。
「あの黒い船、今すぐ沈められない?」
統ならできるはずだ。彼の魔法なら、証拠も残さずにあの船を海の底へ送ることくらい、息をするより簡単だろう。
元凶を排除すれば、海上封鎖の口実はなくなる。
そうすれば、漁師たちは再び海に出られるし、わたしも海鮮丼が食べられる。
しかし、統は首を横に振った。
「却下だ」
「なんでよ!」
わたしは思わず声を荒げそうになり、慌てて口を手で覆った。
「簡単じゃない。よく見ろ」
統は港を指差した。
「あの偽装船のすぐ隣には、海軍の正規の軍艦が停泊している。距離が近すぎる。私が力で船を沈めれば、その衝撃や波で隣の軍艦にも被害が出る。誘爆する可能性すらある」
「……」
「それに、この港の警備を見てみろ。公爵の私兵と、王国海軍の正規兵が混在している。もし今、あの船が謎の爆発を起こせばどうなると思う? テロ攻撃だと判断され、ダイスロープ全土に完全な戒厳令が敷かれる」
統の言葉は、冷徹なまでに理路整然としていた。
「そうなれば、真っ先に疑われ、粛清されるのは誰だ? 私たちのような余所者か、あるいは、昼間から酒を飲んで管を巻いているような、裏街の貧しい人間たちだ」
統はわたしを見上げた。
「お前が昼間世話になったあの食堂の女将も、容赦なく取り調べを受け、最悪の場合は見せしめとして牢に放り込まれるだろう。……それでもやるか?」
わたしは言葉を失った。
統の言う通りだ。
わたしの浅はかな正義感(と食欲)だけで動けば、あの女将さんや、魚屋のおじさんたちを、さらに深い地獄へ突き落とすことになる。
権力という巨大な暴力の前では、個人の圧倒的な力でさえ、使い所を間違えれば周囲を巻き込む災厄にしかならないのだ。
「……わかったよ」
わたしは悔しさに唇を噛みながら、うつむいた。
「今は、我慢する」
「賢明な判断だ」
統は短く応えた。
「でも、諦めたわけじゃないからね」
わたしは顔を上げ、港の黒い船を睨みつけた。
「誰も傷つけずに、あいつらの面目を丸潰れにして、この封鎖を解かせる方法を絶対に見つけてやる。女将さんたちを笑顔にするために」
統は微かに息を吐いた。呆れているのか、それとも別の感情なのか、暗闇では判別できなかった。
「好きにしろ。ただし、私の手に負えない事態になったら、容赦なくお前を抱えてこの街から逃げるからな」
「逃げる前に、あいつらの鼻を明かしてやるわよ」
わたしたちは、冷たい潮風に吹かれながら、暗い街へと戻っていった。
すぐに解決できる力があるのに、使えないもどかしさ。
それでも、この街の温度に触れてしまった以上、見捨てることはできない。
ダイスロープでの滞在は、もう少しだけ長くなりそうだった。
わたしは腹の底で鳴る「深い心臓」の鼓動を聞きながら、明日からの計画を頭の中で練り始めていた。
まずは、この街の裏側をもっと知る必要がある。
そして、あの偽装海賊船の弱点を。
海鮮丼への道は、まだまだ遠く険しい。




