45、スパイ・カコ、石ころひとつ携えて
【2026/5月改訂】
朝というのは、ほんとうに容赦がない。
誰かが空の向こうで「起きろ」とでも言いながら、いきなり光をぶちまけてくるみたいに、まぶしさが目に刺さる。
昨夜遅くまで、これで本当にいいのかを一人でぐるぐる考えていた身には、爽やかな朝日なんて嫌がらせでしかない。
古都テンペタ・フロップスの朝は、腹が立つくらい気持ちよく晴れていた。
窓を開けると、石畳を抜けてきた風が、焼きたてのパンの匂いと、路地裏にしみついた湿った苔の匂いを一緒に運んでくる。
表向きはきれいな観光都市。けど、ちょっと裏へ入れば別の顔がある。そんな街だった。
大きく伸びをすると、首の骨が小さく鳴った。
吸血鬼の体になっても、寝起きのだるさまでは消えないらしい。そこはちょっと、設計ミスじゃないかと思う。
部屋の真ん中のテーブルには、もう統がいた。
すでに紅茶まで淹れて、いかにも最初から起きていましたみたいな顔で座っている。見た目はちびっこなのに、朝の空気だけは妙に年寄りくさい。
「おはよう、七色。顔が死んでいるぞ」
朝の挨拶がそれだった。
「おはよう、弟よ。姉の顔を朝一番で死体判定するなんて、いい度胸してるね」
「事実を言っただけだ。今のお前、煮込みすぎた大根みたいな顔をしている」
「味が染みてるってことなら、褒め言葉として受け取っとく」
言い返しながら向かいに座る。
そこで、わたしは改めてもう一人の姿を見た。
カコちゃんが、椅子の上で小さくなっていた。
昨日の夜、わたしたちは話し合った。
ここから逃がすか、それとも戻すか。
わたしは逃がしたかった。
あんな場所に、この子をもう一度返すなんて、どう考えてもまともじゃない。
けれど、カコちゃんは首を縦に振らなかった。
『うちだけ逃げるなんてでけへん。あの子らほったらかしたら、うちはずっと後悔する』
震えていたのに、目だけは強かった。
あの目を見たら、もう止められなかった。
彼女の前には、宿の朝食が並んでいる。焼きたてのパンに、野菜のスープ、ベーコンエッグ。湯気が立っていて、どれもちゃんと美味しそうだ。
なのに、カコちゃんの手は止まったままだった。
「カコちゃん、食べないの? 冷めるよ」
声をかけると、彼女はびくっと肩を揺らして、そっとこっちを見た。
昨日よりは少し落ち着いている。けど、目の奥にはまだ、深いところまで沈んだ怖さが残っていた。
戻る先がどんな場所か、いちばんよく知ってる顔だった。
「……食べる」
小さく答えて、パンをちぎる。
一口入ったあとは早かった。急に勢いがついて、ほとんど詰め込むみたいに食べはじめる。
味わうというより、先に腹へ入れないと、って感じの食べ方だった。
見ているだけで、胸の奥がちくっとする。
「ゆっくりでいいよ。誰も取らないし、おかわりもあるから」
そう言うと、カコちゃんは口いっぱいのまま、こくこく頷いた。
朝食が終われば、もうごまかせない。
今日やるのは観光でも散歩でもない。
潜入だ。
しかも中に戻るのは、この細い体の少女ひとり。
食後、統が淹れた紅茶を飲みながら、わたしたちは最後の確認に入った。
悔しいけど、美味しい。
「いいか、カコ。昨夜決めた手順をもう一度確認するぞ」
統が淡々と言う。
「うん」
カコちゃんは背筋を伸ばした。
「まず、お前は孤児院に戻る。理由は『逃げようとしたけど行く当てがなくて戻ってきた』だ。恐怖と空腹で心が折れたふりをしろ」
「ふり、やのうて、半分ほんまやけどな」
カコちゃんが乾いた笑い方をした。
冗談みたいに言ってるけど、その通りだ。昨日のあの子は、ほんとうにぎりぎりだった。
「盗んだものについては?」
「『怖なって川に捨てた』て言う。持ってたらまた追いかけられる思て、頭まっしろになってもうた、て」
「それでいい」
統は短く頷く。
理屈としては通る。
でも、通ったところでどうなる。相手は子どもを売り物みたいに扱う連中だ。逃げたうえに、盗んだ品まで失くして戻る。
殴られるかもしれない。もっとひどいことだって、普通にある。
考えたくない想像が勝手に浮かんで、わたしは身を乗り出していた。
「ねえ、統。やっぱり心配だよ。カコちゃん一人で戻すなんてさ……何かあったとき、すぐわかる方法ないの?」
作戦だっていうのはわかる。
でも、敵のど真ん中にひとりで返すには、この子は小さすぎる。
「……言うと思って、用意しておいた」
統はそう言って、ポケットから何かを取り出した。
石ころだった。
河原にでも転がっていそうな、灰色の、形もぱっとしない小石。
「これ、なんやの?」
カコちゃんが不思議そうにつまみ上げる。
「念話石だ。昨夜、石に術式を組んでおいた」
「いつの間に……」
わたしが寝てるあいだに、そんなことまでやってたのか。
「魔力を通せば、対になった石へ声が届く。離れていても使える」
「つまり、遠くから話せる道具ってこと」
わたしが補うと、カコちゃんは目を丸くした。
「こっちの声は返せないが、お前の声は拾える。何かあったら握って念じろ。それだけでいい」
一方通行。
でも十分だ。それでもあるのとないのとじゃ全然違う。
ただ戻すだけじゃない。ちゃんと拾う気でいる。そのことに、少しだけ息がしやすくなった。
「そんな大事なもん、うちが持っててええの?」
「貸すだけだ。なくすな」
統はいつもの顔でそう言った。
でも、昨夜のうちにこれを作っておいたってことは、最初からカコちゃんをひとりで放り込む気じゃなかったんだろう。
「わかった。肌身離さず持っとく」
カコちゃんは石を両手で包んでから、そっと胸元にしまった。
「あと、これも持っていけ」
統がもうひとつ、小さな包みを差し出す。
「干し肉と携帯食だ。隠しておけ。飯を抜かれた時の保険になる」
一瞬、カコちゃんの顔が止まった。
そういう目に遭う可能性を、本人も当然わかっているのだ。
「……ありがとう、お兄ちゃん」
その声は、少し潤んでいた。
統の眉がほんのわずかに動く。
けれど、訂正はしなかった。
「行くぞ」
それだけ言って、統は立ち上がる。
わたしたちも後に続いて、宿を出た。
朝の街は、今日も何事もない顔をしていた。
店を開ける準備をする人。客引きの声。のんきに歩く旅人。
どこを見ても平和そうで、だからこそ腹が立つ。こんな明るい場所のすぐ裏で、子どもが食い物にされてる。
わたしたちは人目を避けて裏通りを進んだ。
セシール修道院は街はずれの丘の上。近づくほど人通りは減って、建物の影が濃くなる。
やがて、修道院の尖塔が見えた。
そこで足を止める。
「ここまでだ」
統が言った。
ここから先は、カコちゃんひとりだ。
彼女は一度、深く息を吸った。
小さな背中が、見えない荷物でも背負ってるみたいに固い。
「……行ってくるわ」
振り返って笑おうとしたのだと思う。
でも、うまくいかなかった。唇だけが引きつって、今にも泣きそうな顔になってしまう。
わたしはしゃがんで、目線を合わせた。
「カコちゃん。無理しないで。ほんとにヤバいと思ったら、すぐ逃げていいから。計画なんてどうでもいい。あんたが無事なのがいちばん大事」
きれいごとじゃなく、本気だった。
悪いやつをどうするとか、証拠をどうするとか、そんなの全部あとだ。
この子が傷つくくらいなら、作戦なんて壊れていい。
「……うん。わかってる」
カコちゃんは頷いた。
そのあとで、ぐっと顔を上げる。
「でも、うちはやる。あの子らのためにも、うちがやらなあかんねん」
怖いはずなのに、足を止めない。
その強さが、まぶしかった。
「頼んだよ、スパイさん」
頭を撫でる。
少しごわついた髪の下に、ちゃんとあたたかい体温があった。
カコちゃんはもう一度だけ大きく息を吸い、それから背を向けた。
今度は振り返らない。
小さな背中が、修道院へ続く坂をのぼっていく。
朝の光の中なのに、その道だけやけに遠く見えた。
門の前で一瞬もたついて、それでも彼女は中へ入っていく。
姿が見えなくなるまで、わたしたちは動けなかった。
「……行っちゃったね」
ぽつりとこぼす。
「ああ」
統の声は変わらない。
けれど、その目はまっすぐ修道院を見据えていた。
その手の中で、対になったもうひとつの石が、静かに握られていた。




