45、スパイ・カコ、石ころひとつ携えて
朝というのは、いつだって容赦がない。
誰かが空の向こう側で巨大なカーテンを「ほら起きろ!」と勢いよく引き開けたみたいに、光が網膜を焼くのだ。
特に、昨夜遅くまで「本当にこれでいいのか会議(脳内開催・参加者一名)」を繰り広げていた人間にとっては、爽やかな朝日はただの嫌がらせに近い。
古都テンペタ・フロップスの朝は、無駄にいい天気だった。
窓を開けると、整備された石畳の街路を吹き抜ける風が、どこかのパン屋が焼く小麦の香ばしさと、路地裏の湿った苔の匂いをブレンドして運んでくる。観光都市としての表の顔と、何やらきな臭い裏の顔。その両方を象徴するような匂いだ。
わたしは大きく伸びをして、首の骨が鳴る音を体内で聞いた。
吸血鬼の肉体になっても、寝起きのダルさまでは改善されないらしい。不老不死のオプションに「朝、スッキリ起きられる機能」がついていないのは、設計ミスだと思う。神様か誰か知らないけれど、次のアップデートではぜひ実装してほしい。切実に。
部屋の中央にあるテーブルでは、すでに統が鎮座していた。
優雅に紅茶を啜っているその姿は、千年の時を経た賢者というよりは、単に「朝から機嫌の悪い猫」に見えなくもない。あるいは、孫の成長を見守る隠居老人か。見た目は十歳児なのに、漂う加齢オーラが半端ではないのだ。
「おはよう、七色。顔が死んでいるぞ」
挨拶の代わりに飛んできたのは、辛辣な観察結果だった。
「おはよう、弟よ。姉の美貌を朝一番に否定するなんて、いい度胸ね。思春期特有の反抗期かしら」
「事実を述べただけだ。鏡を見てこい。今の顔は、三日煮込んだおでんの大根みたいだぞ」
「味があるってこと? ポジティブに受け取っておくわ」
わたしは適当に返しつつ、向かいの席に座った。
そこには、もう一人。
カコちゃんが、借りてきた猫のように背中を丸めて座っていた。
昨日の夜、わたしたちは話し合った。
彼女をここから逃がすか、それとも戦うか。
わたしは逃がしたかった。こんな小さな子を、あんな虎の穴みたいな場所に戻すなんて正気の沙汰じゃない。
でも、カコちゃんは譲らなかった。
『うちだけ逃げるわけにはいかん。あの子らを見捨てたら、うちは一生後悔する』
その震える声と、強すぎる眼差しに、わたしの方が折れたのだ。
彼女の目の前には、宿の朝食である焼きたてのパンと、野菜のスープ、そしてベーコンエッグが並んでいる。どれも湯気を立てていて美味しそうなのだが、彼女の手は動いていない。
「カコちゃん、食べないの? 冷めちゃうよ」
声をかけると、彼女はビクリと肩を震わせ、上目遣いにわたしを見た。
その目は、昨日よりも少しだけ落ち着いているけれど、やっぱり深いところには恐怖が沈んでいる。
これから自分が飛び込もうとしている場所の恐ろしさを、誰よりも知っている目だ。
「……食べる」
彼女は小さな声でそう言うと、パンを千切り、口に運んだ。
一口食べると、スイッチが入ったように速度が上がる。リスが頬袋に詰め込むような勢いだ。
生きるための食事。これから戦うための燃料補給。
それを見ていると、胸の奥がチクリとする。この歳で、食事を「楽しむもの」ではなく「摂取するもの」として扱わなきゃいけないなんて。
「ゆっくり食べな。誰も取らないし、おかわりもあるから」
わたしが言うと、カコちゃんは口をもごもごさせながら頷いた。
さて、朝食が終われば、嫌でも現実に直面しなければならない。
今日の予定は、ピクニックでも観光でもない。
潜入工作だ。
しかも、主役はこの痩せっぽちの少女である。
食後の紅茶(統が入れたものだ。悔しいが美味い)を飲みながら、わたしたちは最終確認に入った。
「いいか、カコ。昨夜決めた手順を復習するぞ」
統が教師のような口調で言う。
「はい」
カコちゃんが居住まいを正す。
「まず、お前は孤児院に戻る。理由は『逃げようとしたが、行く当てがなくて戻ってきた』だ。恐怖と空腹で心が折れたふりをしろ」
「ふり、やなくて、半分ホンマのことやけどな」
カコちゃんが自嘲気味に笑う。
確かに、昨日の彼女は限界ギリギリだった。演技指導をする必要もないくらい、リアルな「敗走者」の顔ができるだろう。
「盗んだものについては?」
「『怖くなって川に捨てた』て言う。これがあれば、また変なおっさんに追いかけられると思て、パニックになってもうた、て」
「よし。それでいい」
統が頷く。
問題は、その言い訳が通用するかどうかだ。
相手は、子供を労働力として売り飛ばすような連中である。大事な商品を盗んで逃げた家畜が、手ぶらで帰ってきたのだ。笑顔で「おかえり」なんて言うはずがない。
折檻か、あるいはもっと酷い罰が待っている可能性が高い。
わたしはたまらなくなって、身を乗り出した。
「ねえ、統。やっぱり心配だよ。カコちゃん一人を行かせるなんて……何かあった時、すぐにわかる方法とかないの?」
いくら作戦とはいえ、丸腰で敵地に放り込むのはリスクが高すぎる。
GPSとか、盗聴器とか、そういう便利な道具があればいいのに。
「……そう言うと思って準備しておいた」
統は涼しい顔で、ポケットから何かを取り出した。
一見すると、ただの石ころだ。
河原に落ちていそうな、灰色で、少し歪な形の小石。漬物石にするには軽すぎるし、水切り遊びに使うには形が悪い。
「これ、なんやの?」
カコちゃんが怪訝そうな顔で石をつまみ上げる。
「『念話石』だ。昨夜、そこらで拾った石に術式を組んでおいた」
「昨日の夜? いつの間に……」
わたしが寝ている間に内職していたのか。
相変わらず準備がいいというか、抜け目がないというか。
「魔力を通すと、対になっているもう一つの石と音声がつながる。トランシーバーみたいなものだ」
「とらんしーばー?」
「遠くの人とお話ができる道具だよ」
わたしが補足する。
「お前には魔力があるから使えるはずだ。何かあったら、この石を握りしめて念じろ。こちらの声は聞こえないが、お前の声はこっちに届く」
一方通行の通信機か。盗聴器に近いかもしれない。今の状況では命綱だ。
「そんなすごいもん、うちが持っててええの?」
「貸すだけだ。なくすなよ。それを作るのに、そこそこの手間がかかっている」
嘘だ。
さっき「そこらで拾った」って言ったばかりじゃん。
でも、恩着せがましく言っておくことで、カコちゃんに「大事なものを持っている」という意識を植え付けたいのだろう。そういうところは、意外と教育熱心なのだ、この少年は。
「わかった。肌身離さずもっとくわ」
カコちゃんは石を大切そうに胸ポケットにしまった。
「それと、もう一つ」
統は、さらに小さな包みを差し出した。
「中身は干し肉と、高カロリーの携帯食だ。見つからないように隠し持っておけ。飯を抜かれた時の保険だ」
「……ありがとう、お兄ちゃん」
カコちゃんの目が潤む。
「お兄ちゃん」と呼ばれて、統の眉が一瞬だけピクリと動いたのをわたしは見逃さなかった。
七千歳のお兄ちゃん。見た目はカコちゃんより小さいのに、なぜかお兄ちゃん呼ばわり。
犯罪的な年齢詐称だが、本人が訂正しないなら黙っておこう。
「よし、出発だ」
統が立ち上がる。
わたしたちは部屋を出て、朝の光が満ちる街へと繰り出した。
テンペタ・フロップスの街は、今日も平和な顔をして動いている。
大通りを行き交う人々。開店準備をする商店の主人たち。観光客相手に声を張り上げる客引き。
誰も、この街の地下で子供たちが食い物にされているなんて、知りもしないし、興味もないのだろう。
平和というのは、無関心の上に成り立つ砂上の楼閣みたいなものだ。
わたしたちは裏通りを選んで歩いた。
セシール修道院は、街外れの丘の上にあるらしい。
近づくにつれて、建物の影が濃くなり、人通りが減っていく。
修道院の尖塔が見えてきたところで、わたしたちは足を止めた。
これ以上近づけば、見つかる可能性がある。
「ここまでだ」
統が言う。
ここからは、カコちゃん一人の戦いになる。
カコちゃんは、深呼吸を一つした。
その小さな背中が、重い荷物を背負ったみたいに強張っている。
「……行ってくるわ」
彼女は振り返り、わたしたちに笑顔を見せようとした。
でも、唇が引きつって、うまく笑えていない。
泣き出しそうなのを必死に堪えている顔だ。
わたしは屈み込んで、彼女の目線に合わせた。
「カコちゃん。無理はしないでね。ヤバいと思ったら、すぐに逃げていいから。計画なんてどうでもいい。あんたの命が最優先だから」
それは、本心だった。
正義の執行とか、悪党への制裁とか、そんなものは二の次だ。
この子が傷つくくらいなら、全部放り出して逃げたっていい。
「……うん。わかってる」
カコちゃんは頷く。
「でも、うちはやるで。あの子らのためにも、うちがやらんとあかんねん」
強い子だ。
この理不尽な世界で、泥水をすすってでも生き抜こうとする強さが、彼女にはある。
それに比べて、わたしはどうだろう。
吸血鬼の力を借りて、安全圏から高みの見物をしているだけじゃないのか。
そんな自責の念が、チクリと胸を刺す。
「頼むよ、スパイさん」
わたしは彼女の頭を撫でた。
髪は少しゴワゴワしているけれど、体温は温かい。
カコちゃんは、もう一度大きく息を吸い込むと、くるりと背を向けた。
そして、一度も振り返ることなく、修道院へと続く坂道を登っていった。
その小さな背中が門の中に消えるまで、わたしたちは動けなかった。
「……行っちゃったね」
わたしはぽつりと呟いた。
「ああ」
統の声は変わらない。
でも、その視線は鋭く修道院の方角を向いている。
その手には、対になったもう一つの石が握られていた。




