34、名を残さない恐怖
代官所を離れてからしばらく、わたしたちは一度も後ろを振り返らなかった。
たぶん、振り返ったら最後、あそこに置いてきたものを、もう一度“確認”したくなってしまう気がしたから。
確認したところで、良い結果なんて、ひとつも転がってないのに。
街外れの暗がりまで来て、ようやく足を止める。
夜風が、容赦なく冷たい。
さっきまでの緊張が、今さら皮膚に戻ってきた感じ。
「……追手は?」
わたしが聞くと、統は小さく首を振った。
「ない。今は混乱の方が勝っている」
「そっか……」
少し間を置いてから、ぽろっと、余計な名前が口から出た。
「グソック……どうしてるかな」
言ってから、自分でちょっと驚く。心配してるわけじゃない。同情でもない。
ただ――
“あのあと”を想像してしまっただけ。
人間、想像力だけは無駄に豊かだから。
「彼は、今は何もできない」
統は相変わらず淡々としてる。
「恐怖は、命令より強い」
「あー……それ、分かる気がする」
怒られるより、理由の分からない沈黙の方が怖いやつ。
***
その頃、代官所の中では。
灯りが煌々と灯され、クアンサマ・オーダイン男爵の怒鳴り声、衛兵や使用人の足音が響きわたっていた。
グソック・オーダインは、自分の部屋に引きこもっていた。
灯りを増やし、扉を何度も確かめ、背後を振り返る。
つぶやきの声さえひっくり返る。
「み、見られた……」
誰に、と聞かれても答えられない。
顔が浮かばない。声も、名も、残っていない。
あるのはただ――
“何かに遭遇した”という事実だけ。
それが、頭の奥で、反響し続ける。
やまびこみたいに。
逃げ場なし。
父に報告すべきだと理性は言う。でも同時に――もっと嫌な声が囁く。
証明できるのか?
誰が信じる?
そして……
それを口にした瞬間、意味をなさない怯えが事実になる。
グソックは、そこでようやく理解した。
自分が、何に守られていたのか。
兵じゃない。
地位でもない。
金でもない。
「何も起きていないこと」。
それが、最大の防壁だった。
その夜、代官所ではいくつかの書類が、“確認のため”に動かされた。
いくつかは、いつの間にか“保管場所不明”になった。
誰も、侵入者の名前を口にしなかった。
口にできなかった、の方が正しい。
***
――街外れ。
「……殺さなくて、よかったのかな」
わたしは、ぽつりと呟いた。
誰かに向けたというより、自分への確認。
「後悔しているか?」
統が聞く。
「……してない」
即答だった。
自分でも、ちょっと意外なくらい。
「なら、それが答えだ」
「もうちょっと何か言いようが」
「迷う理由がない」
相変わらず、ブレないなぁ。
腕の中で、遺品の重みを感じる。
これらと、フィーネのバッグ――自分のバッグだけど、気持ちの中では所有権は移っている――だけは自分の手で持っていたかった。
軽くはない。でも、不思議と邪魔でもない。
これは、放り出しちゃいけない重さだ。
「ねえ、統」
「なんだ」
「わたし……あの人たちみたいには、なりたくない」
統は、ほんの少しだけ考えた。
本当に、ほんの少し。
「ならば、すでに違う」
夜の向こうに、ログハウスの影が見えてくる。
帰る場所。
一息つく場所。
ぐちゃぐちゃになった頭を整理する場所。
オーミの街で終わったのは、“直接ぶつかった部分”だけだ。
本題はまだ終わってない。でも、それ以上はわたしたちがやるべき事じゃない気がする。あとはこの世界、この国の“生きる”人たちの問題。
わたしたちは、また歩き出す。
名前を残さない恐怖を、背中に置いたまま。
胸の奥で、“深い心臓”が、ゆっくり、でも確かに、生きてる音を刻んでいた。




