31、夜の侵入者
【2026/5月改訂】
森の夜は、昼の続きじゃない。
二つの太陽が沈んだあとに来る闇は、色そのものが濃い。
湿った土と葉の匂いがまとわりついて、息を吐くたび喉の奥がひんやりした。
焚き火の残り香は、まだ服に残っている。
なのに、もうずいぶん遠くまで来た気がする。
わたしと統は、並んで歩いていた。
肩がぶつかるほど近くはない。でも、離れすぎてもいない。
今はこの距離がちょうどいい。
「……オーミまで、あとどれくらい?」
小声で聞くと、統は前を見たまま答えた。
「今の足なら、夜のうちに着く」
「今の足ってなに……」
「夜目が利く。疲労しにくい。食事なしでも動ける」
言い方がいちいち仕様説明なのが、統らしい。
胸の奥で、“深い心臓”が静かに鳴る。
怒りそのものじゃない。
でも、怒りのすぐ隣にいる何か、って感じだった。
頭の片隅に、ずっとある考えがある。
奪って、壊して、潰してしまえばいい。
力で制圧して、終わらせれば早い。
簡単だ。
たぶん、統がいれば本当に簡単なんだと思う。
でも、それをやったら戻れない。
フィーネさんが守ったものを取り戻しに行くのに、
そのために、わたしが誰かを壊したら、きっと何かが終わる。
(……フィーネさんは、そんなやり方、望まない)
そう思うと、胸の奥の拍動が少しだけ静かになった。
力じゃなくて、証拠。
できるなら、そっちだ。
法に委ねる、なんて綺麗すぎるかもしれない。
この街で本当に通じるかなんて分からない。
それでも、そうしようとする自分でいたかった。
統が、横目でわたしを見る。
「迷っているか」
「……迷ってない。たぶん」
「たぶん、か」
からかいじゃない。確認だった。
「殺したい、はある。……でも、殺さない」
口に出した途端、喉が少し痛くなった。
怒りって、言葉にすると重さがはっきりする。
統は小さく頷く。
「それでいい」
「……止めないの?」
「止める理由がない。お前が決めた。私はそれを守る」
「保護者だもんね」
「そうだ」
「でも、お姉ちゃんはわたし」
「好きにしろ」
思わず少し笑った。
笑うと、“深い心臓”が少しだけ静かになる。
***
オーミの街は、遠くからでも分かった。
森の匂いに混じって、煤と油と、人の暮らしの匂いが流れてくる。
それから灯り。
闇の中に点々と浮いてる灯りは、地球の街灯よりずっと弱いはずなのに、妙に眩しく見えた。
「……結構、大きい」
「流通の要だと言っていたな」
統は門の方を見たまま言う。
外壁は石造りだった。ところどころ補修の跡がある。
門は閉じていて、夜警が二人、眠そうに歩哨に立っていた。
普通なら、入れない時間。
でも、今夜しかない気がしていた。
証拠は消される。
バッグは移される。
フィーネさんが守ったものが、闇の中で金に換えられて、また別の罪を生む。
そんなのは嫌だった。
「統」
「なんだ」
「……入れる?」
「入れる」
「門、閉まってるけど」
「閉まっているだけだ」
その言い方のせいで、門がただの板みたいに思えてくるのが怖い。
「見張りは?」
「気づかれずに通れる」
「殺さないでね」
「殺さない」
即答だった。
前なら怖かった即答が、今は少しだけ安心になる。
門の近くまで来ると、夜警の気配がやけにはっきりした。
草を踏む音。
鎧の擦れる音。
欠伸を噛み殺す喉の音。
炭が爆ぜる小さな音。
(……やっぱり、聞こえすぎる)
胸の奥で、深い心臓がとくん、と鳴る。
統がわたしの手首に触れた。
冷たい指先。でも、それだけで少し落ち着く。
「七色。息を整えろ。拾いすぎると、思考が遅れる」
「……うん」
門の影に入る。
夜警のひとりが、ふいにこっちへ顔を向けた。
息が止まる。
統の指先が、わずかに強くなる。
夜警の視線が、こっちで止まりかけて――そのまま流れた。
何事もなかったみたいに。
そのまま一歩。
もう一歩。
気づけば、門の内側にいた。
「……え」
声が出かけて、慌てて口を押さえる。
統が指を立てて、黙れと合図した。
街の中は、夜でも完全には眠っていなかった。
酒場の笑い声。
荷車の軋む音。
遠くで泣く子どもの声。
下水の匂い。
魚と香草の匂い。
生きてる街だ。
そのどこかで、権力と金が人を殺してる。
吐き気がした。
でも、足は止まらない。
「代官所と商会。どっちが先だ」
統が聞く。
迷わなかった。
いや、迷ってる余裕がなかった。
耳を澄ます。
人の足音が多い場所。
夜なのにまだ動いてる気配。
荷を引く音。
金属が触れ合う硬い音。
油と香の濃い匂い。
代官所は、たぶんもっと静かだ。
見張りは厳しくても、夜中まで荷が動く感じじゃない。
でも、商会は違う。
金になる物が集まる場所は、夜でも完全には止まらない。
(……こっち)
「商会」
統が頷く。
「案内しろ」
「え、わたし?」
「お前の耳だ。巡回、鍵、配置。地図より正確だ」
「……便利扱いが雑」
「事実だ」
喉の奥で小さく笑って、わたしは統の袖を引いた。
「こっち」
路地に入る。
森の闇より狭くて、人の気配が濃い。
壁が近いぶん、音も匂いも跳ね返ってくる。
靴音。
扉の閉まる音。
酔っ払いの笑い声。
鼠が走る気配。
胸の奥で、“深い心臓”がまた一度鳴った。
でも今度は、怖さだけじゃなかった。
わたしたちは音を殺して、路地の暗がりへ滑り込んだ。




