31、夜の侵入者
森の闇は、昼の延長じゃない。
二つの太陽が沈んだあとにやってくる夜は、色そのものが濃くて、光を食べる。
湿った土と葉の匂いが肌にまとわりついて、息を吐くたび、喉の奥がひんやりした。
焚き火の残り香が、まだ背中に残っているのに、もうずいぶん遠い。
わたしと統は、並んで歩いていた。
肩がぶつかるほど近くはない。
でも、離れすぎてもいない。
その距離が、ちょうどいい。
「……オーミまで、どれくらい?」
小声で聞くと、統は前を見たまま答える。
「今の足なら、夜のうちに着く」
「今の足って、なに……」
「夜目が利く。疲労しにくい。食事も不要で活動できる」
言い方がいちいち“仕様説明”なのが、統らしい。
わたしは唇を噛んだ。
胸の奥で、“深い心臓”が静かに鳴る。
怒りの鼓動じゃない。
でも、たぶん、怒りのすぐ隣にいる何か。
アリアさんたちと別れたときから、頭の片隅にあった考え。
──奪って、壊して、潰してしまえばいい。
──力で、制裁して、終わらせればいい。
簡単だ。
わたしには力がある。
統がいれば、息をするより簡単に終わる。
でも、それをやった瞬間、わたしは“戻れない”。
フィーネさんが守ったものを取り戻すために、フィーネさんみたいに“守る側”へ行くはずなのに。
そのために、誰かを壊してしまったら──
(……フィーネさんは、そんなやり方、望まない)
そう思った瞬間、胸の奥の深い拍動が、少しだけ落ち着いた。
力じゃなくて、証拠。
法に委ねる。
それが通じる世界かは分からないけど、少なくとも“そうしようとする自分”は、まだ人間でいられる。
統が、横目でわたしを見る。
「迷っているか」
「……迷ってない。たぶん」
「たぶん、か」
からかいじゃない。確認だ。
「殺したい気持ちはある。……でも、殺さない」
口に出した途端、喉が少し痛くなった。
怒りを言葉にすると、重さがはっきりする。
統は、小さく頷く。
「それでいい」
「……止めないの?」
「止める理由がない。お前が決めた。私はそれを守る」
「保護者だもんね」
「そうだ」
「でもお姉ちゃんはわたしよ」
「好きにしろ」
思わず、少し笑った。
笑うと、深い心臓が“日常の鼓動”のふりをしてくれる。
***
オーミの街は、遠くからでも分かった。
森の匂いに混じって、煤と油と、人の生活の匂いが流れてくる。
そして灯り。
闇の中に点々と浮かぶ灯りは、地球の街灯よりずっと弱いのに、なぜか眩しく見えた。
「……結構、大きい」
「流通の要だと言っていたな」
統は門の方角を見たまま言う。
街の外壁は石造りで、ところどころ補修跡がある。
門は閉まっているけど、夜警が二人、ぼんやり歩哨に立っていた。
普通なら、入れない時間。
でも、わたしは“今夜”しかないと思っていた。
証拠は消される。
バッグは移される。
フィーネさんが守ったものが、闇で換金されて、別の罪を生む。
そんなの、嫌だ。
「統」
「なんだ」
「……入れる?」
「入れる」
「門、閉まってるけど」
「閉まっているだけだ」
その言い方のせいで、門がただの板に見えてくるのが怖い。
「見張りは?」
「気づかれずに通ることはできる」
「殺さないでね」
「殺さない」
即答。
前なら怖かった即答。今は、少し安心する。
門の近くまで来ると、夜警の足音が異様にはっきり聞こえた。
草を踏む音。
鎧の擦れる音。
欠伸を噛み殺す喉の音。
炭が爆ぜる小さな音。
(……全部聞こえる。やっぱり変だ)
胸の奥で、深い心臓がとくん、と鳴る。
統が、わたしの手首に触れた。
冷たい指先。でも、不思議と落ち着く。
「七色。息を整えろ。音を拾いすぎると、思考が遅れる」
「……うん」
視線だけで「ついて来い」と言われる。
門の影に入る。
夜警の視線が──通り過ぎる。
統が何かした。
でも、何をしたのかは分からない。
次の瞬間。
門の内側にいた。
「え……」
声が出そうになって、慌てて口を押さえる。
統が指を立てて制した。
街の中は、夜でも完全には眠っていなかった。
酒場の笑い声。
荷車の軋む音。
遠くで泣く子どもの声。
下水の匂い。
魚と香草の匂い。
生きてる街だ。
そのどこかで、権力と金が、人を殺してる。
吐き気がした。
でも、止まらない。
「代官所と商会。どっちが先?」
統が聞く。
迷わなかった。
「……商会」
バッグは、たぶん“金になる場所”にある。
統は頷いた。
「案内しろ」
「え、わたし?」
「お前の耳だ。巡回、鍵、配置。地図より正確だ」
「……便利扱いが雑」
「事実だ」
喉の奥で小さく笑って、耳を澄ませる。
川の音。
人の足音が多い場所。
荷車。
金属音。
脂と香の匂い。
(……こっち)
わたしは統の袖を引き、路地へ入った。




