21、ゲルトの腕と炎
【2026/5月改訂】
右腕が飛んだ瞬間、ゲルトの視界は赤く染まった。
血が見えたからじゃない。
痛みでも、恐怖でもない。
怒りだった。
「……っ、ぐ……ぁァッ!!」
叫んだつもりだった。
けれど喉から出たのは、言葉にもならない獣のうなりだけだった。
身体が勝手に動く。
痛みを理解するより先に、脚が床を蹴っていた。
(逃げろ)
(逃げろ、今は……!)
右腕の切断面から血が噴く。
熱い。臭い。鉄臭い。自分の血の匂いが濃すぎて、鼻の奥が焼けそうだった。
背後で衛兵が何か叫んでいる。
刃が背中をかすめ、鎧が削れる音がした。
それでも止まれない。
ゲルトは壁を蹴り、窓枠に足をかけ、そのまま屋根の縁へ飛びついた。
掴んだのは左手一本だけだ。
「……ッ!!」
肩が抜けるかと思った。
右側の重みがなくなったせいで、身体の均衡が狂っている。骨の断面が脈打つたび、視界が白く弾けた。
それでも左腕だけで身体を引き上げ、瓦の上に転がり込む。
息がうまく吸えない。
自分の鼓動だけが、耳の奥で馬鹿みたいにうるさかった。
「……フィーネ……ローデリヒ……ディルク……」
名前を呼んだ瞬間、胸の奥がひきつった。
屋根の上から、宿の前が見えた。
倒れているフィーネの姿が見える。
バッグを抱えたまま、衛兵に囲まれていた。
「……あ……」
声が出ない。
行きたかった。
今すぐ飛び降りて、あの連中を噛み殺してでも取り返したかった。
でも、分かっていた。
今戻れば、自分も終わる。
終わったら、何も残らない。
あの場で何があったのかも、誰も外へ持ち出せない。
喉が震えた。牙が鳴った。
(行きてぇ……!)
(でも……今は無理だ……!)
足が止まりかける。
それでも次の一歩を踏み出した。
胸の奥で、何かが焼けていた。
怒りだった。
悔しさだった。
置いてきた背中の熱が、そのまま火になって残っていた。
ゲルトは屋根の上を走った。
片腕では均衡が取れず、何度も足を滑らせる。
瓦を砕き、壁に肩を打ちつけ、それでも走る。
「……まだ……だ……」
血が点々と残る。
自分の足跡が、そのまま追手への道しるべになる。
まずい。
そう思った時には、身体の方が先に動いていた。
市場の屋根から転がり落ち、肉屋の裏手へ飛び込む。
そこにあった布を歯で引き裂き、左手で無理やり上腕を縛り上げた。止血帯代わりだ。
「っ、が……ァ……!」
痛みが脳天まで駆け上がる。
吐きそうになる。けれど止まれない。
さらに肉塊を引き寄せ、その脂と血を自分の身体に擦りつけた。
自分の血の匂いを潰すためだ。
腐った脂の臭い。生肉のぬめり。
吐き気が込み上げる。
でも、これで少しは追跡を遅らせられる。
路地裏へ飛び込み、影から影へと潜る。
汚水の臭いが鼻についた。
それすら今はありがたかった。自分の血を隠してくれる。
走る。
走る。
走る。
どこかで鐘が鳴った。
捕縛の合図かもしれない。
あるいは増援を呼ぶ音かもしれない。
そのたびに胸の火が煽られる。
(フィーネ……)
少女を前にした時だけ、少し柔らかくなる顔。
怒る時ですら、最後には世話を焼いてしまう匂い。
(ディルク……)
文句ばかり多いくせに、結局いちばん道具も飯も気にしていた。
(ローデリヒ……)
背中を預けて平気だと思えた、数少ない相手。
その記憶が、足を止めそうになるたび噛みついてくる。
「……俺は……何を守れた……?」
風に向かって吐いた言葉は、すぐに散った。
外壁の影にたどり着いた頃には、息はもう切れ切れだった。
膝が折れそうになる。血もまだ止まりきっていない。
しゃがみ込み、荒い息を吐く。
痛い。
苦しい。
寒い。
でも、それよりも強いものが胸の奥に残っていた。
(あいつらは、仲間を奪った)
(フィーネを殺した)
(ローデリヒも、ディルクも、まだ分からねぇ……けど……)
(このままで終わらせるかよ)
ゆっくりと、ゲルトは顔を上げた。
朝なのに、自分の中だけまだ夜だった。
胸の奥で燃えている火だけが、妙に熱い。
「……絶対に許さねぇ」
低い声だった。
獣が唸るみたいな、喉の奥の音だった。
「フィーネのためにも……あいつらのためにも……あの子のためにも……」
少女の匂いは、まだ完全には消えていない。
バッグの匂いも、フィーネの血の匂いも、まだ自分の鼻の奥にこびりついている。
なら、終わっていない。
ゲルトはふらつきながら立ち上がった。
片腕を失った痛みで、背中が丸くなる。
それでも足は前を向いた。
「……俺だけは、生き延びる」
それは敗走の言葉じゃなかった。
取り返すための、生存だった。
血の匂いと、脂の臭いと、消えない怒りをまとったまま。
ゲルトは街の外れへ向かって歩き出す。
足元に落ちる血は、まだ赤い。
胸の奥の火も、まだ消えていなかった。




