21、(11.4)ゲルトの腕と炎
右腕が吹き飛んだ瞬間、ゲルトの世界は赤く染まった。
血が視界を覆ったのではない。
痛みでもない。
恐怖でもない。
──怒りだった。
「っ……ぐ、あ、ぁぁーーッ!!」
喉が裂けるほど叫んだつもりだったが、実際は声にならない獣のうなりにしかならなかった。
身体が勝手に動いた。
痛みを感じる暇なんてなかった。
(逃げろ……! 逃げろ……!!)
(ここで倒れたら──誰が、フィーネたちのことを……)
(誰が、あの子のことを……)
脚に全力を込めて踏み出す。
右腕から噴き出す血が自分の足元を赤く染めていく。
衛兵の刃が背中をかすめ、鎧の一部が削れた。
衝撃に体勢が揺れる。
それでも跳んだ。
壁を蹴り、屋根の縁に手を掛け──
いや、「手」ではなかった。左手一本だ。
「……っ!!」
片手で自分の体重を支える負荷が、肩に残った骨を軋ませる。
右側の体が重い。
痛みで視界が明滅する。
血の匂いが鼻を突き、自分自身の肉の匂いに吐き気がした。
それでも、屋根の上に転がり込んだ。
追いかける衛兵たちの声が遠くに聞こえるが、耳が音を拾えなかった。
心臓の鼓動だけが大音量で響いていた。
「……フィーネ……ローデリヒ……ディルク……」
名前を呼ぶだけで、胸が裂けそうだった。
逃げながら、視線を下に落とす。
宿屋の前には、倒れたフィーネが見えた。
少女のバッグを腕に抱いたまま。
「……う、あ……」
声にならない声が喉で溺れる。
フィーネの血は、そこだけ色が違って見えた。
鮮やかで、温かくて、動き出しそうで──
でも、もう動かない。
ゲルトの足が瓦の上で止まりかけた。
(行きてぇ……! フィーネの傍に行きてぇ……!)
(でも──行ったら俺も死ぬ)
(俺が死んだら……誰がこのことを……)
喉が震え、牙が鳴った。
逃げなければならないという本能と、仲間の死に飛び込もうとする衝動が、全身でぶつかり合う。
ただひとつ確かなのは──
心が千切れそうだということだけだった。
ゲルトは屋根の上を走った。
片手でバランスを取るのは難しく、何度も転び、瓦を砕き、壁に肩をぶつけた。
「……っ……まだ……だ……」
血が足跡になり、後ろへ続いていく。
その軌跡は、まるで仲間の死へ戻る道のようで、目を背けたくなった。
(あいつら……もう……)
心の奥から、黒い絶望が這い上がる。
(ローデリヒの声も……ディルクの笑い声も……。フィーネのあの、優しい匂いも……全部……全部……消えちまうのか……)
喉が震え、視界が滲む。
「……俺は……何を守れた……?」
問いは風に消えた。
跳んだ先の屋根が滑り、体が横に倒れた。
肩から転がり落ち、市場の屋根を突き破るように落下する。
痛みが全身に走った。
だが、倒れている暇はなかった。
衛兵の影が遠くに見えた。
ゲルトはよろけながら立ち上がり、肉屋の裏へ飛び込んだ。
そこに積まれていた布と肉塊を乱雑に掴み、右腕の断面に押し当てる。
「っ……が、ぁ……!」
痛みが脳を焼く。
視界が白く瞬く。
それでも匂いをごまかさなければ、すぐに追いつかれる。
血の臭いを肉の脂で塗り潰すと、彼は壁を蹴って再び走り出した。
路地裏は薄暗く、汚水の匂いが漂っている。
しかしゲルトにはそれすら救いだった。
血の匂いを誤魔化せるからだ。
影から影へ、彼は獣のように潜り込む。
汗と血で濡れた毛が肌に張り付き、息が絶え絶えになりながらも──
走る。
走る。
走る。
どこか遠くで鐘の音が聞こえた。
奴らが捕縛の成功を告げたのかもしれない。
あるいは仲間の死を告げる鐘かもしれない。
どちらにせよ、ゲルトの胸は裂けるほど痛んだ。
(フィーネ……)
思い出すのは、彼女が少女をあやすように微笑んでいた顔。
(ディルク……)
気難しいくせに面倒見の良かった男。
(ローデリヒ……)
無口で頼もしく、背中を任せられた戦士。
彼らの声が、匂いが、死の瞬間の熱が──
すべてゲルトの心臓を打ちつけていた。
「……全部……守れなくて……」
言葉が崩れ落ちた。
右腕が失われた痛みがまた全身に広がる。
だが心の痛みのほうが、何倍も鋭かった。
町の外壁の影に潜み、ゲルトは息を荒げながらしゃがみ込んだ。
血はまだ流れている。失血で倒れてもおかしくない。
それでも、生存本能が彼を支えていた。
だが──胸の奥には、もっと強い何かがあった。
(……奴らは、仲間を殺した)
(フィーネを、あんな……)
(ローデリヒとディルクだって……どうなったかわからねぇ)
(このまま終わりじゃねぇ……絶対に……)
ゲルトの瞳に、怒りの炎が宿った。
痛みで霞む視界が、まっすぐに前を見る。
「……絶対に許さねぇぞ……」
声は低く、獣籠の中のようだった。
「フィーネのためにも……仲間のためにも……最後にあの子のためにも……」
傷口を押さえながら、ゲルトは静かに立ち上がった。
もう、仲間の姿はどこにもない。
彼だけが、生き残ってしまった。
だからこそ──
「……俺だけは、生き延びる」
決意と血の匂いをまとい、ゲルトは夜の森の方へと歩き出した。
足跡は、片方の手の血で赤く点を打つようについていく。
片腕を失った獣人の背中は、痛みと喪失に歪んでいた。
けれど──その瞳の奥には、確かな憎悪が燃えていた。
そしてかすかに、まだ消えない希望の炎も。




