第10話暴かれるベール
輝くクリシュタルの都。光に隠れて暗躍していた存在について思考を巡らすシーザーと同じく、一連の出来事を振り返るジュリアの姿が寝室にあった。
南向きの窓から入った太陽光が机に置かれていた手帳を照らす。午前のスケジュールにはバツ印に被せるように赤字で『騎士団と』と、シーザーの予定が書き直されていた。
だが予定はそっちのけ。ジュリアは私室のベッドに寝そべり、クッションを潰さんばかりの勢いで、抱きしめている。
彼女にしてははしたなく水鳥のように脚を動かしては、落ち着きがない。
クッションに押し付けた口元からは時折悲鳴じみた声が漏れた。
(あれはお姫様抱っこですわよね)
遠慮がちに染まった頬で、ジュリアは、シーザーに抱えられた場面ばかりを夢想していた。
(はぁぁぁ……あれが噂の。ほんとうにたくましくなられて。こども時代のシーザー様が嘘のようでしたわ。とくにあの両腕の上腕二頭筋)
「ほう……」、ジュリアの瞳がうっとりと輝く。
抱えられた際、『重くないかしら』とジュリアは横抱きにされるのを辞退しようとした。しかし、硬直したまま見上げる彼の人の真摯なまなざしに戸惑い、結局はなされるがままになった。
こっそり体重を軽くする魔法を掛けようにもそんな魔法など知らず、まさか意中の相手に洗脳魔法をかけるわけにもいかない。
大人しく受け入れるジュリア。
そんなジュリアは物憂げな吐息をもらす。すると顔を遮るように影が差した。
「暑かったか? すまない、もう少しの辛抱だから我慢してくれ。すぐに馬車を手配する」
シーザーはジュリアの体を労りつつ、そうして馬車乗り場まで彼女を抱えて疾走する。
まるで壊れ物のように運ばれて、ジュリアは、いっそこの腕の中で眠りたいという欲求にまで駆られたほどだ。
城に戻ってからは眉根を寄せる医者相手に治療を受けた。シーザーの担当医はジュリアの容態を診ると「こりゃ大変だ!?」と忙しなく消毒液やら軟膏、真新しい包帯などを台車で運んできた。
「なに、妻はそんなに症状が……?」
横からシーザーが顔を青くして診療台を覗く。
「いえ、傷は陛下自ら手当てしたおかげでしょうな、大事には至りません。ただ思いの外出血がひどく、このままでは貧血で失――……あ、大丈夫ですか、今っ鉄剤とベルトを」
細かな傷跡のわりには元気なシーザーと城の医者が慌てたようにジュリアを支える、そんな愉快な場面。
(私、今心配さ、れ――)
ジュリアが覚えているのはそこまでだった。
「困ったわ……」
ジュリアの精神は回想を終え、現在に呼び戻される。
一度つぶやいたせいで余計に思い悩んでしまった。
あんな距離感で接してしまえばいまさらどんな態度で取り繕えばいい。彼に構おうにも以前と同じ手法は通用しないだろうことは、容易に計算できた。
ジュリアは自分が嫌われているからこそ、余計な物言いは控えつつも必要最低限の接触には成功していたのだった。
だが、昨日までとは大違い。
現に今朝のシーザーは、『俺はお前の居室になど通わないがな』という宣言を撤回したのか、自らジュリアの私室へと赴いた。叩いても扉を開けない妻に焦れた様子ではあったが、出てこない相手を諦めたように、出かけにはこう発した。
「私は行くが、お前は出歩かず休むといい。その…………ッ、ではな」と挨拶までして廊下を大股で引き返していった。
彼が小声で言いかけた内容はジュリアにはばっちりと聞こえていた。心配している、と続くはずだったそこには真綿でくるむような思いやりが詰まっていた。
(あっ、ああああ~~~~! 私なんてことを!!)
ずるずるとベッドに体が沈みこむ。
「シーザー様に言い返せなかった。『いってらっしゃい』、すら」
思わず唇を押さえる。発言した言葉が妙にあまったるく聞こえてジュリアの耳元はじわじわと火照った頬と同じ色に染まる。
「だめよ悩むなんてらしくない。だって私は――ひゃ!?」
突然ノックされた音にビビッて飛び上がる皇帝が妻。扉の外からは不審な視線が飛び込んでくるような居心地の悪さを感じる。
ジュリアは咳払いし、髪と身なりを確認する。
今度は自ら、来訪者の用件を確認した。
◇◇◇
――本当に薄気味悪い女。
敬愛する皇帝陛下が噂の妻、その私室をいやいや覗くメイド居た。
鷹揚とドアを開閉したジュリアをシルファはにらむ。
真夏だというのに丈のあるグローブを片時も外さず、衣装はすべてダークトーンというコーディネートの異質さ。せめて髪ぐらいは軽くすればいいのにと、シルファはむだに豊かな毛髪を眺めて鼻をならした。
当のシルファはメイド服をしっかりと着こなして、従者らしく応対する。
ところが内心は面白くない。
―シーザー様はなぜこんなやつにまで優しいの?
一メイドにしてはシーザーに傾きすぎるきらいのあるシルファはジュリアに対してこの嫌悪を顕にしすぎていた。
シルファは今朝方の様子を思い出した。
『悪いがシルファ、薬師から薬を受け取って部屋に届けてほしい』
『な!? シーザー様がお怪我を!? 大変ですにゃ、すぐに……』
シルファは大わらわで仲間を呼んで介抱に徹しようとした。ところがそんなシーザーは慌てた様子もなく、照れくさそうに頬を掻いてはにかむ。
『たしかに俺も負傷したが……、薬は妻に。あとは任せたぞ』
――ガン!!
頭部に直撃した単語が信じられない。
(つ、ま……? いま、あの女にって言ったのか!?)
シルファはあわや片付けるはずの盆を落としそうになった。床への大惨事は防がれたがシルファへの容赦のない損害は計り知れない。
そして、現在に至る。
(まさかあのお方までこいつの毒牙にかかるとは……恐ろしき女、油断大敵なのだわ)
珍しくまともな成句を使えたシルファだがお守りのシルヴァンはここにいなかった。ゆえに彼女を阻む障害は、ひとつもない。
(今日こそあたしが成敗してくれる!!)
内心ではかたく拳を固めシルファが高らかに宣言していた。
「奥様、治療用のお薬ですわ」
シルファは強かな笑みを貼り付けて目的を達成した。
まずはクリア、だがその段階で白魚のような手ざわりに突然目を剥く。
なんと、受け取るジュリアが薬の瓶どころかシルファの手まで包むように受け取ったのだ。
そのせいで、簡単に裂けそうな質感にシルファは動揺した。
己の手のみをみつめるシルファは背筋がゾワゾワとし落ち着かない。
(なんて綺麗な……)
薬を受け取って納得するジュリアを怪訝な目でみつめる。日に透かして中身を確認している姿は一見すると単なる女性のようだ。
(いけない! 惑わされるものか!)
首を左右にふると凛々しい顔を浮かべてジュリアに迫る。
距離を詰められたジュリアだが「何かしら?」とあくまで余裕そうだ。
「奥様は――……あの方にふさわしくないのでは」
考えなしのシルファは、真っ向勝負に出た。
「……え」
「あなたもお気づきでしょうが陛下には心に決めた方がおります。一途なあの方にはやはり、彼女こそお似合いかと」
「あなた……、なにか知っているのね。教えてちょうだい」
「ええ教えてあげます、ん……んんん?」
なにやら展開がおかしいことに気づくシルファ。雲行きが怪しくなった彼女は一旦引こうとするが、そこであの柔い手に再び手を取られた。
「はっ、離せ!」
払いのけようと牙を剥くシルファを前に、しかし件の奥様は引かなかった。そればかりか……。
「ねぇ、誰なのかしら!! やはりここは王道に食堂の看板娘? それとも劇場の花形スター!? あるいは人妻との道ならぬ恋――って、それはダメよ!!」
「は、話を聞け――!!!! 的外れもいいとこなのだわ!? シーザー様にはもっとぴったりな……」
脱線しかけたシルファだが、ここで目的を達成する筋道が眼の前で光ったように視えた。
「ぴったり?」、脳内の算段も知らずつばを飲み込んだ女に、シルファは高笑いが止められない。
「それはもう綴じ鍋に破れ蓋なお人です!!」
「逆では?」
「ハッ! し、失敬な、お前を試しただけなのだわ」
間違いを澄ました顔で取り繕うシルファ。
相手がジュリアであったことが功を奏し、細かく注意はされなかった。シルファはひっそりと胸を撫で下ろす。
そんな彼女にジュリアが願ってもない発言をした。
「お願いよ、私、その方を一目だけでも見たいの。協力してくれたら……」
「諦めるのか! そうかそうかー! いいにゃ、今連れてってあげるにゃ」
(フ、そんな下手に出てもアレを見れば遁走するのがオチ。今に見てろ、なのだわ……)
シルファの魂胆など知る由もないジュリアは満面の笑みで手を打った。
嬉しそうな顔に胃のむかつきを覚えたシルファだが、作り笑いで返す。
「奥様はコレクションルームへどうぞ。あたしは鍵を取ってから合流します」
「ええ。では先に行くわね」
部屋の主に待ってるわ、と優雅に手を振られて見送られるシルファであった。その足が向かった、先は。
シルファは鍵守が控える奥まった部屋で、開口一番控えていた衛兵にまで聞こえる声量で言い放った。
「地下室の鍵をよこすのだわ」
白昼堂々の脅迫である。
「ブッフゥゥゥゥ!! おまっ、急になにを? 茶を噴いちまったろうが」
「汚いなあ」
「そうじゃないだろ! いくら俺が休憩中でも、お前が仲間でも、言っていいこととやっていいことが……」
――あたしは急いでるにゃあ……。
普段はしがないメイドに扮するシルファがその爪を光らせた。結果、衛兵を一人、昏倒させることに成功する。
いかに普段とんちきな言葉選びをしようが、彼女は皇帝陛下にまで覚えられるほどの逸材であった。その潜在能力は人間とは比べ物にならぬほどで、稀にシーザーとも手合わせする姿が城では目撃されていた。
そんな彼女が見境なく本気を出せば。
――鍵、渡すにゃ?
「しる、ヴぁんを……あいつを。だれか呼……」
最後まで抗った鍵守、彼は意地で戦うが獣人族の戦闘能力を前に昏倒した。城のセキュリティールームを突破したメイドは一人、鍵をみつめて呟く。
「どれが地下室の鍵なのだわ?」、と。
「うん? 今なにか物音が――」
向かいの通路では今まさに通行人が異変を聞きつけた。
◇◇◇
部屋の前でシルファと分かれたジュリアは寝間着姿を脱ぎ、そでにチュールがあしらわれたマキシ丈のワンピースを着る。ハイウエストの影響で普段より脚が長く映った。肩にはショールをかけ、万が一にも腕の傷が外見に響かないよう注意し、先の尖ったポインテッドトゥのパンプスを選ぶ。
あくまでスマートカジュアルといった服装に身を包むジュリアだが、やはり黒が基調となるせいで、どこか威圧感があった。
(シーザー様のお慕いする方と、ついに相まみえるのですね。しかし……)
なぜ地下室なのか、とジュリアは疑問符を頭の上に浮かべた。
まさか幽閉でもされているのか、ジュリアは不安になる。お相手はやんごとなき身分で、じつは隠されるだけの理由があるのだろうか。
と、想像したところで「いえいえシーザー様に限って監禁など、そんな無粋なマネ、は……」と続けようとして、ジュリアの脳裏にシーザーの卓越した筋力が過った。
(……で、できるかもしれません)
「奥様ぁ~~、おまたせしました」
この時ばかりはシルファの暢気な声にも身震いするジュリアであった。
「本当にこの奥にいるのね」
シルファが鍵束を次々に試すのを見ながらジュリアはぼやいた。
「ええ、ありますよ、この中に」
「「ん?」」
ふたりは奇妙な食い違いに顔を突き合わせた。
そのタイミングでさしていた鍵穴が回る。
メイドに案内され、ジュリアは地下の宝物庫へ入った。
そこは、金銀財宝とは無縁な芸術作品ばかりが散見される。歴代の王族が描かれた名画も、神々の姿をかたどった彫刻も、有名なアートが所狭しと並ぶ中で、ドレスばりのベルベットを用い目隠しされた絵がかけられている。
絨毯を踏みしめて、シルファがその絵に近づく。
「とくと見るがいいのだわ!!」
サテンの布が、シルファの手により、幕が下りるように取り払われた。
(こ、これは……!)
「この肖像画こそ初恋の君! ですから、嘘の奥様はいますぐお引き取り、」
「あああっ、こんなところに! お前に奇襲されたって言うから追いかけ……、それはッ!?」
ベールを解かれたのは一枚の油絵。
よく大切にされながら眠っていたのだろう。
翼の生えた天使の如き、少女の絵姿。
ジュリアは、ほぼ同時に口にしていた。
「これ私じゃないの!?」
「「はぁ!?」」
たった今聞いた言葉が信じられないのか、シルヴァンといったか年若い執事は自分の耳をしきりに摘んでおり、かたやシルファは耳を自立させ唸っていた。
「あ、えーっと、はい。ジュリア様ではないです」
「そんなことよりどうする気だ!! あれほど言うなって忠告したよな、なあ!」
「えー、知らないにゃ」
とぼけるシルファ相手にシルヴァンは頭を抱える。だが、ジュリアはそれどころではなかった。
(こんなことがあるなんて! シーザー様はきちんと覚えて……、私のことをこんな形で、残す、ほど、に……)ジュリアは胸の中でさえ言葉を継げなかった。
美化されていることも含めジュリアは納得した。
――彼の中で、私はこんなに素敵な姿として残っているのね。
「なるほど、これは敵わないわ」
ジュリアの敗北宣言に色めき立つシルファ。そんな彼女を叱るシルヴァンも耳を疑った。
額縁にはタイトルの代わりに名前が彫られている、――『アリシュ・ホワイ』、と。
(私が捨てた名だわ。ここにあるのが不思議ね……)
絵画をみて、ジュリアはますますシーザーとの溝が深まったように感じた。過去の自分が飾られているのをじっとみつめる。
(これはとても言えないわね。ジュリアがアリシュだった、なんて)
「……そもそも信じていただけないか」そんなジュリアの弱気な本音は小さすぎて誰の耳にも入らなかった。
「っていうか、どこが奥様……?」
「あっ……そ、そうね。ほら、見事な髪でしょ」と、ジュリアは気恥ずかしさから、うっかり誤解するにいたった理由を挙げてみせた。
「一緒なのは長いってことぐらいだわ」、呆れるシルファの眼は妙に長細い。
「えとそれは、いろ、を…………」
「いろ?」
革新的なことを言いそうになったジュリアは黙り込む。
「こ、これ以上はいろいろ追いつかないので引きますわ。なんでもありませんッ!! し、失礼しました」
ジュリアはいたたまれず足早に宝物庫を去るが、その時人にぶつかってしまった。顔を確認する余裕もなかったジュリアは謝罪だけするとすぐさま逃げ出した。
◇◇◇
「行っちゃったな? なんだったんだろう」
「勝った、にゃ!!」自信満々にシルファは勝利宣言をあげた。
「いや、お前はアウトだろ。一緒に叱られるんのはパスだからなー」
「え? なんで?」
使用人たちは気づかない。
急ぐジュリアを受け止めても平然としていた、その貫禄の持ち主。まさか彼女がぶつかった相手こそが――……、
「へいっ、……シーザー様、失礼しました!」
「にゃんと!?」
ゴゴゴゴゴッと遠雷の音を背景に彼らの前に立ちはだかるは、この城の持ち主、シーザー・エンゼルその人。
対して、赤い布を引いたままの現行犯が一名。
「シルファ、仕置きだ。教育係に改めて伝えておくからな」
「ふええええー!? なんでですかっ! だって、わたしはんぐぐ」
「これ以上余計なことはさせるか! ってことで、おれたちはこれで。シーザー様もお気をつけて」、シルヴァンは愛想笑いを浮かべたまま穏便に立ち去ろうとした。
「ああ。くれぐれもよろしくな」
「はい……」、お見通しだと言外に告げられて、シルヴァンはうなだれるほかない。
絶句しているメイドもまとめて、「ほら行け」とぞんざいな扱いでコレクションルームからシーザーは追い出した。
室内に静寂が戻る。
シルヴァンに腕を引かれたことで行き場を失ったサテンの布地。ひらひらと落ちた布を拾いかけると、肖像画の彼女と目が合った。
「君は、無事なのか?」
熱いまなざしを注ぐシーザー。対する絵画の少女は、目を伏せたまま笑うのみだった。