1.予定調和の自殺と、突然の救い
錆だらけの手すりの傍らに立ち、全てを焼き尽くすかのような夕日を眺めた。
そんな都市伝説があったな。
「縋り坂公園で人生で一番美しい夕日を見た時、それは人生がまもなく終わることを意味する」
ってね。
けど、裂口女も八尺様も現れない。ただ私自身が、目の前の巨大な湖の底に沈もうとしているだけだ。
少し身を乗り出して青緑色の湖面を見下ろす。本当に流れているんだろうか?
考えすぎても意味がない。どうせすぐ、何も考えられなくなるんだから。目を閉じて、ガタついた手すりに腰を預け、上半身を90度に折り曲げるようにして湖面へと体重を預ける――
「ちょ、ちょっと待って――!」
甲高い女の声が背後から聞こえて、私はびっくりした。もともと不安定だった体勢が古びた鉄の棒を押しつぶし、「ドボン」という音とともに、私はまっさかさまに水中へ落ちた。この音じゃ、飛び散った水しぶきは3メートルはあったんじゃないか?
冷たい湖水中で、私はゆっくりと沈んでいく。鼻から水が入り込む感覚は心地よいものじゃないけど、構っている暇はない。ただ、普通に水中の景色を楽しんだ。なるほど、こういう感じなのか。
上からかすかに声が聞こえてくる。
「バカ!バカ!」
「ど、どうしよう……!?……もう、知らないっ!」
そして、さっきよりも大きな「バシャッ!」という音がして、私の時よりも高い水しぶきが上がったに違いない。ぼんやりと、何かの影が私に向かって迫ってくるのがわかった。目の前の景色がだんだん暗くなり、私は意識を失った。
再び自分が生きていると感知した時、胸が強く押されていた。
「……苦、しい」
この言葉は口に出すことはできなかった。口を開けようとした瞬間、柔らかくて温かい何かが私の唇を覆ったからだ。油っぽく、リップグロスの味がした。
「バカ!早く目を覚まして!死んじゃったら、絶対に許さないからね!」
わあ、キスされちゃった。
その口触りが離れ、再び胸を強く圧迫されると、一股の衝撃がこみ上げてきた。私はばったりと上半身を起こし、大量の水を吐き出した。
「えっ!? ちょ、大丈夫!?」
私は天も地も分からないほど激しく咳き込んだ。やっと落ち着いた後、ずっと誰かが背中をさすってくれていたことに気がついた。
居心地が悪かった。小学校を卒業して以来、誰もこんな風になだめてくれたことはない。
「バカ……」
しばらく新鮮な空気を呼吸し、意識がはっきりしてきた頃、この子の声がずっと泣き声を帯びていたことにやっと気づいた。絶対に知らない子だとは誓えるけど、誰かが心から私のことを心配してくれていると思うと、ちょっとだけ嬉しかった。
まったく、救いようのない性格だ。
「もう……大丈夫……?」
傍らにいる彼女は、私がうつむいたまま長い間黙り込んでいる様子に驚いたらしく、か細い声でそう聞いた。
「ううん。もう少し座らせて」
「……!」
突然口を聞かれたことに驚いたらしく、彼女が背中でさすっていた手がピタリと止まった。
……ちょっと不満だ。
顔を上げて右を向くと、自分ずぶ濡れの前髪越しに彼女を見た。
ギャルだ。
この子は多分私と同い年くらいで、私の傍らにひざまずいていた。着ている制服は見覚えがない。金色のロング巻き毛は水に濡れて原型をとどめていないけど、メイクはほとんど崩れていない——きっといいブランドの化粧品なんだろう。彼女の瞳は大きくて丸く、琥珀色の瞳孔がまっすぐに私を見つめている。白いシャツはずぶ濡れで体に張り付き、下に着ているピンクのブラジャーがはっきりと透けていた。
「我に返れ」
「お、おう……」
彼女が弱々しく答える。誰だとか、なぜここにいるのか聞こうとした瞬間、彼女は何かに気づいたらしく、突然私に向かって怒り出した。
「自殺なんて絶対ダメ!死んだら何もなくなるんだよ!?まだ十七歳で、これから可能性いっぱいあるじゃん!それに、あたしがまだ……もう、とにかく自殺なんて許さないからね!」
……強い口調だ。
「自殺なんてしてない」
「え?」
「夏だし、暑いから」
「だから?」
「だから湖の水でちょっと涼もうと思って」と言おうとしたけど、考え直してみるとこの嘘がばかばかしすぎることに気づいた。
ギャルは「それウソでしょバレバレだよ?」という眼差しで、じーっと私を見つめてきた。
こわい。
喋れば喋るほどボロが出るので、これ以上は説明しないと決め、主導権を取り戻すことにした。
「あなた、誰?」
「え?あ、あたし、白石夏姫」
「わかった。じゃあ、白石さんって呼ぶね。白石さん、なぜここに?」
どうやら世の中のギャルはみんなシングルタスクらしい。私が質問を投げかけると、彼女は怒りモードから、ロボットのような応答モードへと切り替わった。
「だって、しおり……えっと、その、顔色がすごく悪かったから……心配で……後をつけてきたの」
彼女が「顔色がすごく悪かった」の前に、小さく私の名前らしきものを口にしたことに気づいた。
私はもう一度確認した。絶対に、こんな顔して、こんな名前で、こんな声の子は知らない。
「汐里?」
私は自分の名前を口にしてみた。
「っ……!」
彼女の顔が一気に真っ赤になった。「あ……」という声が何度ももだえ、それ以上なにも言えなくなっている。
彼女の表情がコロコロ変わる顔を眺める。不思議だ。どうしてひとりの人間の顔に、こんなにたくさんの表情がつくれるんだろう?私は人をこんな風に観察したことがないから、比較できるのは自分自身だけど、私の表情はいつだって「葬式みたいに暗い」と評される、陰気でひとつだけの表情だ。
「私のこと、知ってるの?」
「……うん」
彼女は覚悟を決めたようにそう口を開いた。
なぜ?
もし昨日、誰かが私に「明日、あなたが自殺する時に美少女ギャルが助けに来るよ」なんて言ってきたら、私はきっと「アニメやギャルゲーのやりすぎで頭がやられたオタクだな」と思うだけだった。
世間に流行る物語に則るなら、今の私は教室の後ろの方の窓際に座っていて、見た目は人付き合いが苦手そうだが、実は内心がとても優しくて魅力的な主人公であるはずだ。
問題は、私が主人公ではなく、ただ、長すぎる前髪と、どんよりとした死んだ魚みたいな目をしていて、内心も優しくなくてちょっと意地悪な女の子だってことだ。
「じゃあ、自己紹介は要らないんだ」
それ以上は追求しなかった。うん、私は確かに主人公なんかじゃない。でも今、誰かが私を気にかけてくれている。私はこれをちょっとだけ楽しむことに決めた。この空気を壊したくない。
「う、うん!汐里……あっ違った!黒崎さん」
「立つよ。手を貸して」
あまり長く座りすぎて、足が少し痺れていた。
白石は近づいてきて、私の手首を掴み、支えながら立ち上がらせてくれた。湖の水に浸かって冷たくなった私の体に、彼女の温かい体温が触れて、少しだけ頭が痺れるような感覚があった。
「黒崎さん、大丈夫?病院に行く?」
私は首を振り、まっすぐ湖岸の方へ歩き出した。
「ちょっと――」
白石が私の前に立ちはだかった。
「自殺はダメ!命を大切に!」
「はあ。」
「じゃあ、あそこにある私の靴取ってきて。」
私の指さす先には、制服の靴と上着が湖のほとりの放棄されたベンチの上に静かに置かれていた。
「それなら動かないでよ!」
彼女は膨れっ面で私を睨みつけると、一秒でも遅れたら私がまた湖に飛び込んでしまいそうな勢いで、猛ダッシュで私のものを持ってきてくれた。
「あ、ありがとう。」
私は靴下と靴を履くと、上着を白石に放り投げた。
「着なよ。」
「そんな低体温でしょ!早く自分で着なさいよ!」
白石はぷいっと顔を背ける。
「下着、透けてるよ。」
私は彼女の半透明のシャツを指さした。
白石は下を向いて自分を見て、「きゃっ」という小さな声をあげた。ギャルってみんなこんなにオーバーなリアクションするんだっけ?
「驚いてないで、行くよ。」
私の制服の上着を彼女が着るのを確認すると、私はくるりと背を向けて歩き出した。
「待って、待ってよ!」
白石は三歩並みに足を速めて、私の横にやってきた。
「寒くないの?」
「生まれつき。」
「え?」
「体温低いの、生まれつき。」
「やっぱり病院に行った方が――」
「行かない。」
「じゃあこの服……?」
私は足を止めて、彼女に向かって微笑んだ。
「なんとか自分で返しに来てよ、ストーカーちゃん。」




