彼女は、ただ笑っていただけ
「……ねえ、覚えてる?」
「……誰のこと?」
「カティアよ。ほら、前にアリシア様に仕えてた──あの、黒髪の子」
「……ああ。突然、いなくなったあの子?」
「そう。気づいたら姿がなくて、誰に聞いても“辞めた”としか……」
「理由、聞いた?」
「いいえ。でも、あの日のことが忘れられなくて」
「……どの日の?」
「例の──お二人が、並んで歩かれた日よ。音楽会の前だったかしら」
「東の回廊?」
「そう。白い花が飾られていて……アリシア様のドレスが、淡い水色で」
「……ああ、あの日。覚えてるわ。空気が、妙に静かだった」
「カティアは、その時、裾を直すために近づいていて……」
「アリシア様と目が合った?」
「ええ。目が合って、それだけ。何も言葉はなかったの。でも──その時、カティアの手が止まったの」
「止まった?」
「そう。まるで、指先が凍ったみたいに」
「……アリシア様は、何かおっしゃった?」
「いいえ。ただ、笑っていらした」
「──ただ、笑って?」
「ええ。とても、綺麗に。でも……どこか、遠くを見るような」
「……わたし、ゼノ様のこと、思い出しちゃった」
「……どうして?」
「その少し後に、ゼノ様が現れたのよ。何の音も立てずに」
「控室の入り口よね?」
「ええ。“ちょうどいい”タイミングで。いつもそう」
「……カティア、ゼノ様と目が合ったんでしょうか」
「わからない。でも、そのあと、急に具合が悪いと訴えて……その日の夕方には、もう姿がなかったの」
「挨拶もなしに?」
「手紙も残っていなかったそうよ。まるで、最初から“存在していなかった”みたいに」
「……それって、ちょっと……」
「偶然よ。偶然、たまたま、きっと」
「でも、もし……“気づいてしまった”のだとしたら?」
「気づくって、何に?」
「笑顔の奥にあるもの。アリシア様の、そして……ゼノ様の」
「……やめましょう、そういう話」
「ええ、でも──わたし、怖くて」
「カティアのこと、誰も触れたがらないわよね。名前も、声も、空気も……全部、なかったことみたいに」
「記録係も、一行も書いていないって」
「──わたし、信じてるの。カティアが何か“見た”んじゃないかって」
「なにを?」
「わからない。きっと、わたしたちには見えない何か。でも、アリシア様と目が合ったとき、あの子の表情……」
「どんなふうだったの?」
「──微笑んだのよ」
「え?」
「ほんの少し、アリシア様の笑みに合わせて。でも、それが……ひどく、悲しそうで」
「……でも、アリシア様は、ただ笑っていらしたんでしょう?」
「ええ。ただ、笑っていらしただけ」
「それなら──怖がる理由なんて、ないはずよね?」
「……そうね。そう、のはずなのに」
「わたしたちも、笑っておきましょうか?」
「ええ。……笑っていれば、たぶん、大丈夫」
──けれど、その笑みが心からのものだったかは、誰にも分からない。




