書類フォーマット逆流編
その朝も、第4記録課の執務室は静かだった。
──ほんの数分前までは。
「主任代理、これ……」
フィアネスが恐る恐る持ってきた紙束を見て、エグバートは眉をひそめた。
「引継ぎ書類か。第五課から?」
「はい。人事異動関係で」
「……また面倒なのを朝イチで」
そう言いながら、ぱらぱらとめくったエグバートの手が、あるページで止まった。
「……おい」
「はい」
「これ、“所属課→異動先”じゃなくて、“異動先→所属課”になってないか」
「えっ?」
フィアネスが覗き込み、顔色を変えた。
「……本当だ。全部逆です」
「つまり」
「つまり──」
二人の視線が同時に書類の一行目に落ちた。
【異動先:退職 所属課:第五課】
「…………」
「…………」
沈黙ののち、二人同時に頭を抱えた。
「退職って! 全員、退職扱いにされてます!」
「おいおいおい、誰がこんなフォーマット作った!?」
その叫び声に、室内の文官たちがざわざわと顔を上げる。
「え? 退職?」
「まさか全員ですか?」
「第五課、壊滅……?」
ざわめきが一瞬にして広がった。
「いやいやいや! これは単なる逆記載であって、実際に退職するわけじゃ……」
「でも官報にそのまま載せたら、“第五課全員退職”って布告されるんですよ!?」
「そしたら第五課の部屋、空っぽになるじゃないですか!」
フィアネスの声がどんどん裏返っていく。
一方でエグは机をドンと叩いた。
「全員、作業中断! ただちに名簿を救出するぞ!」
その瞬間、執務室が一斉にざわめき、棚から人名簿や異動台帳が次々と引っ張り出されていく。
「フィアネス、確認班を仕切れ!」
「は、はい!」
「俺は第五課に抗議に行く!」
「主任代理、自分で行くんですか!?」
「行かねえと話が進まんだろ!」
五分後。第五課執務室。
「……で、このフォーマットを作ったのは誰だ」
低い声に、空気が凍りついた。
ベテラン文官フォルカス・ギレンが、気まずそうに手を挙げる。
「……おれだ」
「お前か」
「だってよ、わかりやすいだろ? “次に行くとこ”を先に書いた方が」
「そのせいで課ごと消滅してんだよ!」
怒鳴るエグに、第五課の若手が青ざめる。
「じ、実際、控えにも“退職済み”で記載されてまして……」
「ふざけんな!」
その頃、第4記録課の会議室では。
「確認しました! 名簿三冊目、十八ページまで逆記載です!」
「こちらも二十四ページ分すべて“退職”です!」
「辞令控えも“退職通知”になってます!」
「退職者一覧が厚さ三センチに……!」
会議室が修羅場と化していた。
「トールさん! これは人事局に報告を!?」
「まだだ! 報告したら公式記録になっちまうだろうが! とにかく修正が先だ!」
エグバートの補佐でもあるトールが額に汗を浮かべながら叫ぶ。
「全員、赤インクを持て! “退職”を“異動”に書き換えるんだ!」
「了解!」
「了解!」
記録課の面々が一斉にペンを走らせる。
そんな修羅場の中、しかめっ面をしたエグバートが帰ってくる。すかさず、トールが事情を聞こうと近寄っていた。
「エグバート、第五課は?」
「バカだった」
「知ってます」
「“わかりやすいから”で様式変えて、課を丸ごと抹消しかけたらしい」
「……バカですね」
机に戻ったエグバートはため息をつき、椅子に腰を落とした。
「で、今どれくらい進んでる」
「ええと……三分の一は救出済みです。残り二百人くらい」
「地獄だな」
その会話を聞きながら、新人文官が恐る恐る手を挙げた。
「あの……主任代理」
「なんだ」
「控えの控えにも“退職”って転記されてて……王立年金局に回っちゃいました」
「…………」
エグのこめかみがぴくりと動いた。
「つまり、第五課全員が“退職者年金”を受け取る手続きに入ったと」
「は、はい」
「……よし。全員、残業確定だ」
昼前。
「主任代理、書類救出九割終了しました!」
「赤インクの在庫切れです!」
「補充を急げ!」
会議室はまるで戦場だった。
ペンが走る音、紙がめくれる音、ため息、叫び声──。
「主任代理! 控えを訂正しました! “退職”から“異動”に!」
「よし! 次!」
「トールさん、誤記録の訂正票は何枚提出しますか!?」
「……全員分です」
「全員!?」
「全員です!」
午後。
「……ふう」
ようやく書類の山が収束した頃、エグバートは机に突っ伏した。
「もう嫌だ。朝から人事局に課を救いに行くとは思わなかった」
「でも、なんとか誤記録は出さずに済みましたね」
「代わりに俺の寿命が縮んだ」
フィアネスが苦笑する。
室内の空気は疲労でどんよりしているが、それでも達成感はあった。
「主任代理」
「ん」
「これ、第五課への返信書類です。“正式様式を用いること”って赤字で強調しました」
「よし。門の前にでも貼ってこい」
「掲示ですか!?」
「そうだ。通行人にも見せろ。見せしめだ」
室内にどっと笑いが起きた。
夕刻。
「今日もお疲れ様でしたー」
「お疲れ様でしたー……」
文官たちがぞろぞろと帰っていく中、フィアネスが小さく呟いた。
「……朝は静かだったんですけどね」
「記録課に“静かな朝”なんて存在しねえよ」
エグのぼやきに、周囲がまた笑い声をあげた。
──その日、第4記録課は第五課を丸ごと救出した。
そして「退職者ゼロ」の布告が無事に出されたのは、翌朝のことである。




