クラウス、筆で殴る ―儀礼課の新人伝説―
王宮・儀礼課の一室。
朝の光が差し込む窓辺に、机と書見台がずらりと並び、そこでは十人近い文官がペンを走らせていた。
その中に──一際落ち着いた姿で座る若者がひとり。
クラウス=リースフェルト。
配属されてまだ数か月の新人。
だが、その筆の運びを、周囲の誰もが横目で見ていた。
「……聞いたか? まただってよ」
「またって?」
「クラウス坊ちゃんだ。昨日、式典文案に赤入れしたらしい」
「赤……? 誰の草稿に?」
「ギルバート先輩のだ」
「……あのギルバート先輩に!?」
ざわめきが走る。
ギルバートは十年選手。儀礼課でも書式美と典礼文案に定評があり、後輩の憧れでもある。
その文章に──新人が赤を入れた?
「おいおい……あの先輩、昨日すげえ顔して控室に戻ってきたぞ」
「泣きそうな……いや、もう泣いてたって噂だ」
「そんなわけ──」
と、噂の本人が控室に入ってきた。
ギルバート先輩。
普段は穏やかでにこやかな表情を崩さないが、この日は目元が赤い。
「……先輩、おはようございます!」
「……ああ。おはよう」
返事はしたが、声が沈んでいる。
後輩たちは顔を見合わせ、恐る恐る尋ねた。
「……あの、噂は本当なんですか? クラウス殿に……」
「……ああ。本当だ」
「えええっ!?」
「いや、赤を入れるだけならいい。修正の指摘もまあ……仕方ない」
「じゃあ、何が……?」
「奴の修正稿だ」
ギルバートは机にどさりと紙束を置いた。
「見ろ。俺が一晩かけて仕上げた祝辞文……“陛下の御威光は大河のごとく……”ってやつだ」
「ああ、あれですね」
「それを──“陛下の御威光は黎明の光のごとく”に書き換えやがった!」
「……黎明の光……」
「……そっちの方が……いい……かも?」
「やっぱり?」
「やっぱりじゃない!」
ギルバートが机を叩いた。
「俺は十年この課で筆を執ってきたんだ! 重厚さを重んじて“大河”を選んだのに……“黎明”なんて軽いだろうが!」
「で、でも……夜明けを連想させて、“新たな時代”を祝う感じが……」
「しかも“光”だから、祝辞としては明るく収まりがいい……」
「うるさい! お前らまであいつの味方か!」
そのとき、ひょいと扉が開いた。
「失礼します」
入ってきたのは件のクラウス。
書類を胸に抱え、涼しい顔で一礼する。
「先輩方、おはようございます」
「……来たな、“美文の鬼”」
「えっ、もう渾名ついてる……」
「クラウス。お前な……昨日のあれは、どういうつもりだ?」
「どういうつもり、とは?」
「俺の草稿を、勝手に全面書き換えただろう!」
「勝手ではありません。式典用の草稿は“課の資産”。改善点があれば修正を提案するのは当然です」
さらりと言い切る。
周囲が「ひえっ」と息を呑む。
「俺は“陛下の御威光は大河のごとく”と書いた! その重みを──」
「大河は時に氾濫します」
「……なに?」
「御威光を大河に例えるのは、雄大ではありますが、同時に“制御できぬ力”を暗示します。祝辞には不適当です」
「っ……!」
ギルバートの顔が引きつる。
「では、“黎明の光”は?」
「黎明は新しき始まりを示します。光は広がり、全てを照らす。陛下の威光を讃えるにふさわしい。式典の趣旨にも沿います」
「そ、それは……」
「文は形だけではありません。響きと象徴が肝要です」
新人が、十年選手に堂々と講釈を垂れている。
控室の空気は凍りついた。
「……クラウス、お前な」
「はい、先輩」
「お前の言うことは正しい……正しいんだが……!」
「ありがとうございます」
「だから腹が立つんだよ!」
思わず叫んだギルバートに、周囲はぷっと噴き出した。
「……先輩、負けたんですね」
「泣かされたんですね」
「黙れ!」
ギルバートは机に突っ伏した。
「……俺は、十年……十年も筆を磨いてきたのに……」
「クラウス殿は、配属されて数か月ですよね……?」
「どういうことなんだ……」
クラウスは、そんな先輩の背を見つめて小さく首を傾げた。
「……私はただ、美しい文を目指しているだけです。
もしそれで先輩が傷つかれたのなら、お詫びします」
その声は誠実で、嘘もなく。
だからこそ、先輩は余計に救われない。
「……クラウス。お前はな」
「はい」
「……将来、絶対に嫌われるぞ」
「それは困ります」
「もう嫌われてるから安心しろ」
後輩たちの笑い声が弾ける。
こうして──
クラウス=リースフェルト、新人にして“美文の鬼”。
彼の筆は、この日もまた先輩を泣かせ、儀礼課に伝説をひとつ増やしたのだった。




