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庶務課の新人が“記録課”に転属希望した理由

 その朝、第4記録室はいつも通り静かだった。


 羽ペンの音、紙の擦れる音、そして時折、誰かが小さくため息をつく音だけが室内に漂っている。


 その穏やかな空気を破ったのは、フィアネスの声だった。


「……主任代理。これ、今日の転属希望書類の中に変なのが混じってました」


 静かに差し出された一枚の転属希望書類。

 エグバート=グランヴィルは、眉一つ動かさずそれを受け取ると、目を通した。


「……庶務課第七室所属、ヒルデ=クラム。現職、備品管理補助。希望先、第4記録課。理由……“静かそうだから”?」


 トール=バレックが、いつもの無表情のまま囁いた。


「“静かそうだから”。いい理由ですね。字面だけ見れば、確かにうちは静かだ」


「うん、死体安置所みたいな意味で静かだよね……」


 フィアネスがぼそりと呟いたが、誰も否定しなかった。


 エグバートはペンを取り、書類の隅にさらりと一言だけ書き添えた。


『面接、3分で済ませろ』


「了解しました。面接対応、任せてください」


 淡々と頷いた“記録課の精密機械”は、書類を手に立ち上がる。


「ちなみに、なぜ3分なんですか?」


 フィアネスの問いに、エグバートが淡く笑った。


「その理由を、本人に見せてやればわかる。3分でな」


 


◇◇◇


 


 面接室。午後一番。


 扉をノックして入ってきたのは、まだ制服の襟元が新品のままの少女だった。

 庶務課のヒルデ=クラム。配属から半年の新人。姿勢はまっすぐ、声もはきはきしている。


「失礼いたします! 本日、面接のお時間を頂きました、庶務課第七室所属、ヒルデ=クラムです!」


「どうぞ。座って」


 応対に立ったのは、トール=バレック。表情は変わらず、口調は穏やか。


「まず、転属希望理由。“静かそうだから”。この点について、補足は?」


「はいっ。以前、提出文書の確認で記録課を訪れた際、非常に落ち着いた空気が流れていて……私、そういう環境でこそ力を発揮できると感じました!」


「なるほど」


 トールは、ひとつ頷いて机の引き出しを開ける。そして、そこから書類の束を取り出した。


「では、記録課の“静けさ”について簡単にご紹介しましょう。これは過去一週間の業務記録です」


 書類が、重みのある音を立てて机上に置かれる。


 ヒルデの目が少し見開かれる。


「……えっ、これ、全部で……?」


「まだ月曜分です」


 トールが次に出したのは、赤インクでびっしりと加筆修正の入った議事録の束。

 付箋と紙片が大量に挟まり、一部はもう再製本待ちの状態になっている。


「こちらは昨日の“非公式協議”の記録原案。“記録として残すべき部分”と“政治的に危険な発言”の境界を、文字単位で調整する必要がありました」


「あ、あの、それって、どのくらいお時間が……?」


「夜明けまでです。ちなみに、その判断を間違えると“記録室ごと飛ぶ”と先代が言っていました」


「……えっ?」


「こちらは“感情的表現をいかに削るか”が議題となった文書。記録に感情が乗ると、後に恨まれる可能性があるので」


「そ、それは……」


 ヒルデの顔から血の気が引き始めている。

 トールは最後に、黒革のファイルを一冊、そっと置いた。


「これが“記録課で静かに息を引き取った者たち”の記録です」


「……え?」


「つまり、過労や精神的ショックで退職、または“消息不明”となった元記録官のリストです」


「し、消息……っ!?」


「もちろん、全員がそうなるわけではありません。向き不向きはある。ただ、“静かそうだから”という理由では、まず間違いなく後悔するでしょう」


 ヒルデの唇がわなわなと震えた。


「……す、すみませんでした! 異動希望、取り下げます!!」


 椅子を蹴るようにして立ち上がり、一礼しながら彼女は走り去った。

 ──最後の“バタン”という音が、やけに重たく響いた。

 面接室に静寂が戻る。


「……2分42秒」


 時計を見て、トールが静かに呟いた。


「予定より18秒早かったですね」


 


◇◇◇


 


 その日の夕刻、第4記録室。


「終わったか」


 コーヒーを片手に、エグバートが振り向いた。


「予定通り、3分以内で撤退しました」


 トールが報告する。フィアネスがそっと呟く。


「……でもまあ、最初はみんな、そう思うんですよね。“静かそう”って」


「実際、静かだからな」


「……死人の山の上に静けさが積もってるんですけどね」


 3人は、何事もなかったかのように書類へと視線を戻した。

 羽ペンが走る音が再び空間を満たす。


 そう。記録課第4室は、今日も“静か”だった。



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