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名前が違う──って言いましたよね?

 その朝も、第4記録課の執務室は静かだった。

 蝋燭の匂いと紙の手触り、時折聞こえる羽ペンの音。

 落ち着く。この時間だけは、まだ落ち着いている。



「……あれ?」



 整然と並んだ書類束の中に、やけに丁寧な筆跡が目を引いた。

 提出元は、王立文書局第五課。引継書類──人事異動絡みの定番である。

 だが、その署名欄を見た瞬間、フィアネスは眉をひそめた。



「ギレン・フォルカス……?」



 逆だ。

 どう見ても逆だ。

 正式には“フォルカス・ギレン”。

 雑談や飲み会ならともかく、公文書でこの順はありえない。



「……これ、だめじゃないか」



 無意識に呟いた言葉が、隣席の文官に伝染した。



「何かあった?」

「名前の並びが全員間違ってます。しかも──」



 ぺらり。



「……全12ページ、すべて」

「うわ……」



 午前8時10分。今日の平和は、儚くも崩れ去った。




 ***




「要するに、“通称順で書いただけで間違いじゃない”と?」

「間違いじゃねえだろ? “ギレンさん”で通ってんだしよ」



 肩をすくめたのは、当の本人──ベテラン文官フォルカス・ギレン。

 提出者にして、全名逆転男の筆頭。


 だが、記録課の側としては──



「公文書では、登録名が優先です」



 フィアネスの声に怒気はない。だが語尾がぴしりと締まっていた。



「この書式は、官報に転記されます。“ギレン・フォルカス”では、異動者と認識されない恐れが」

「でも、意味は通じるだろ?」

「通じればいいというものではありません。制度です」



 フィアネスの頬がひくりと動く。

 制度、形式、正確性──それこそが記録課の矜持。


 しかしベテランは、わかっていてわかっていない。



「まあ、名前が反対だったくらいでそんな大騒ぎすんなよ」

「そのせいで今、第4記録課が1課丸ごと止まっているんですが」

「……あー、悪い」


 なんとなく謝ってはくれた。だが、まったく反省の色はない。

 フィアネスの隣では、エグバート主任代理が朝の胃痛とともに額を押さえていた。



「で? 誰がこの書類書いたんだ」

「おれじゃねえよ。あいつだ」



 ベテランが顎で示した先には、青ざめた若手補佐官。

 どうやら今月入省の新人らしい。



「……申し訳ありません。名簿に“ギレン(通称)”と書いてあったので……」

「正式登録は“フォルカス・ギレン”です。通称欄はあくまで補助情報であって……!」



 フィアネスの言葉を、エグバートが手で制した。



「まあまあ、説明は後でいい」



 そして、声の調子にだけ、剃刀のような鋭さが混じった怖い笑みを浮かべる。



「……書き直せるよね? いますぐに」

「っ……! はいっ!!」



 新人が勢いよく頭を下げ、走っていった。

 その背中を見ながら、エグバートは低くため息をつく。



「……朝から名簿を出すはめになるとは思わなかったよ」



 棚から抜き出した“正式人名簿”は、厚さ五センチ。

 細字でびっしりと登録名と通称、旧名と異名まで記載されている。



「フィアネス、よくわかっただろう」

「はい?」

「ベテランの言う“だいたいでいい”は、だいたい間違ってるってことだ」

「……覚えておきます」



 フィアネスが小声で答えたとき、背後でまた何かが崩れる音がした。



「主任代理ぃ……!」



 戻ってきた新人が、原本の控えをひらひら振っている。



「……同じミス、三か所で再利用されてます」

「は?」

「別の引継書に、まったく同じ記述が──」



 それを聞いた瞬間、エグバートが音もなく椅子から立った。



「──全員、会議室へ移動。今からミスの全洗い出しを行う。

 記録課の名にかけて、これ以上の誤記録は出させん」


 

 その声に、室内が静まり返った。



「……この人、本当に記録課の人ですよね?」


「誰よりも記録課ですよ」



 小声で震えながらささやいた新人の言葉に、フィアネスは笑いながら頷いた。




 ***




 午前九時。

 会議室の片隅で、フィアネスはこっそりと備忘録をまとめていた。



【記録課・教訓録(暫定)】

1.提出書類の名前欄は正式登録名のみ記載

2.通称・通り名は備考欄へ(必要なら括弧付き)

3.通称で通るからといって、公文書が通るとは限らない

4.ベテランは、記録課基準では“未確認生命体”である



 その日、第4記録課の朝は、いつにも増して忙しかった。

 けれど──まあ、これはこれでいつもの朝だった。




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