──その手を取れるのは、今宵が最後かもしれないから
「……扉が開いた瞬間、空気が変わったな」
誰に言うでもなく、そう呟いたのは――兄である、私だった。
金糸のような髪。
銀と真珠のティアラ。
そして蒼。裾へと光を集める、あのドレス。
「……まさか、ここまで仕上げてくるとは」
少女ではない。
王女として、ひとりの女性として、舞台に立つ覚悟を、その姿は纏っていた。
「お兄様」
アリシアが、微かに笑ってみせる。
「お迎えに、来てくださったのですね?」
「……当然だ。今日は、お前の晴れ舞台なのだから」
差し出した手を、迷いなく彼女は取る。
その手の小ささと、温もりの芯に――また、痛みが差した。
「緊張、していますの」
「そのようには見えない」
「見せていないだけですわ」
……本当に、強くなった。
けれど同時に、手の中のぬくもりが遠く感じられる。
「──行こう。舞踏会が始まる」
「はい。……ご一緒に」
この夜、王が宣言する。
アリシア・リュミエール王女は、婚約者を得る、と。
名は、すでに決まっている。
私は、その名を口にすることはないが。
「……ゆっくりと参りましょう」
小さく告げたその声が、かすかに震えていたことを、彼女は気づいただろうか。
会場に一歩踏み出せば、無数の視線が降り注ぐ。
そのすべてが――アリシアに向けられていた。
「……さすが、姫様。あのご衣装、とてもお似合いですわ」
「まあ……ありがとうございます」
「本当に、王女というより、もう……ひとりの、立派な貴婦人のようで」
「……誉めすぎですわ。ですが……嬉しいです」
笑う彼女を見て、私もまた、微笑んでみせる。
けれど――内心では。
(このドレスを、誰かが褒めるたび)
(この手を、誰かが取るたび)
(なぜ、こうも心がざわつくのか)
「……お兄様?」
「……なんでもない」
思わず指先に力が入っていたのだろう。
彼女は少し目を見開いたあと、すぐに微笑み返してくれた。
(気づいているな、お前は)
何も言わず、何も問わず。
ただ、微笑んで――そっと寄り添ってくれる。
(王族とは、役割だ)
だから私は、仮面を整える。
王太子として、兄として、彼女を送り出すために。
「……今日のお前は、本当に美しい」
「お兄様がエスコートしてくださったから、ですわ」
「それは……光栄だな」
祝福の音が鳴り響く。
舞踏会は、誰かの“はじまり”を告げる儀式。
けれど私にとっては――“終わり”なのかもしれない。
(今夜だけは、奪われたくなかった)
本心を押し隠して、私は笑う。
王太子エドワルド=リュミエールとして。
「……これからも、ずっとその笑顔を絶やすな」
「はい。お兄様の隣で学んだこと、忘れません」
アリシアが、ふわりと笑った。
その瞬間だけで、いい。
その笑顔だけで、今は――いい。
「……それならば、もう何も言うまい」
(たとえ、二度とこの隣に立てなくなったとしても)
私の役目はここまでだ。
だが、それでも。
「お前が、微笑んでくれさえすれば……それでいい」