裏紙はやめろって言ったでしょうが!──予算削減の闇
「……おかしい、文章に妙な抑揚が……」
朝一番、いつものように第4記録室で整理作業を始めていたフィアネス=ベイルは、手元の紙に視線を落としたまま眉をひそめた。
それは今日の提出分──宮廷内の備品支給に関する業務命令書のはずだった。だが、読み進めるにつれ、どうにもおかしい違和感が背筋を這っていく。
──君が使った銀のペン先は、あの日の光を反射していて──
「……はい?」
思わず裏返す。そこにあったのは、達筆な筆致で綴られた恋文だった。
文末には、「君の笑顔を思い浮かべつつ、心をこめて。──Aより」と書かれている。
「……どこのAだっ!!」
机に突っ伏す勢いで叫びかけたところに、コーヒー片手のエグバート=グランヴィルがのんびりと登場した。
「朝から元気だな、フィアネス。どうした」
「どうしたもこうしたもありません! これ、裏が恋文で表が正式な命令書なんですよ!?」
「おお、噂の裏紙使用か。経理課が“予算削減の一環”として推進中らしいぞ」
「いやいやいや、記録課ですよ!? “保管”が本業のうちが、恋文の裏に命令書綴ってどうするんですか!?」
「まあ、誰かの私的文書を再利用ってのは、ちょっと趣深いな」
「趣とかいらないんです!!」
業務命令書の裏に、誰かの“とっておき”が印刷されているという狂気。
もしこの書類を上長に提出していたら、あるいはもっと正式な記録として綴じていたら──
「うちで恋文が保管されていたら、どんな洒落にならないことになるか……!」
フィアネスは震える手で、そっと書類を“表向きに”戻し、深く、深く溜息をついた。
書類の裏が恋文という衝撃からまだ立ち直れないうちに、フィアネスは次の書類に目を通していた。
それは王宮施設の改修に関する稟議書──の、はずだった。
「……これ、日付が……二ヶ月前……?」
眉間に皺を寄せながら、今度は紙の裏を確認する。すると、そこには同じ施設名、同じ担当部署……ただし、予算が微妙に違う旧版の稟議書が印刷されていた。
「裏が旧版、表が最新版……?」
しかも、承認印が二か所とも“押されかけている”ように見える。判子のインクが裏まで透けているのか、それとも両面に別々の印が押されているのか──判別不能な地獄構造。
目の前が遠くなった。
「……記録課でこれを保存しろって言われても無理です……」
混乱は第4記録室だけでは済まなかった。
第3記録室から、怒鳴り声に近い内線が入る。
『──こっちはこっちで依頼文が二重に印刷されてるんですよ! 前の文面の上に新しい文面が重ねてあって、“第二皇女への祝辞と道路補修の要請”が一体化してるんですけど!? どう読めと!?』
混ざってはいけないもの同士が混ざると、文章は意味不明どころか政治的に危険ですらある。
顔を引きつらせながらフィアネスが経理課へ確認に走ると、実に軽い返事が返ってきた。
「ああ、それな。裏紙ストックを“適当にまとめて”、再印刷したんだよね~」
「適当にって何ですか!?」
「再利用紙は節約になるって上が言ってたし~。なんならうちも機密っぽいのは使わないようにしてるし、そこまで大ごとじゃないかと?」
「……もういいです。記録課内で処理しますから……」
半分泣きかけのフィアネスが記録室に戻ると、そこにはなぜか第2記録室の“紙の手触りにうるさい補佐官”が立っていた。
「……これ、再利用紙ですね」
目を閉じたまま、まるでワインを味わうような手つきで書類を撫でる補佐官。
「紙繊維の方向が違います。しかも、裏に消しかけたインクの痕跡がある。……再印刷による微細な圧力の違いが指先に伝わるんですよ」
ドヤ顔でうなずくその姿に、フィアネスの語彙が限界を迎えた。
「この人……もう“文官”じゃなくて“紙官”ですよね……?」
それでも、エグバートは落ち着き払った表情で紙束を机に置くと、うん、と頷いた。
「よし、記録課としては“裏紙使用の全面禁止”を主張しよう」
「最初からそう言ってたじゃないですかッ!!」
ついに堪忍袋の緒が切れたフィアネスの声が、記録課の壁に反響した。
しかし、本人はそのまま崩れ落ちるように椅子に沈み込み、手で顔を覆う。
「これ、もう業務命令書の裏に“実験報告書”とか来ても驚きませんよ……」
記録課の秩序を脅かす裏紙の嵐は、まだその全貌すら明かしていなかった。
記録課が裏紙による混乱の余波で騒然としていたその午後。
静かに第4記録室の扉が開いた。
「失礼します。一時的に第6から応援を命じられました、三等書記官フロイライン=リースフェルトです」
制服も所作もピシリと整えられた若手文官が、凛とした姿勢で入ってくる。
だがその手に持った紙束を見たフィアネスの目が、一瞬で曇った。
「……それ、まさか……?」
「はい、再利用紙とのことです。確認しながら内容の整理を──」
フロイが紙束の中から一枚を取り出す。
その端、わずかに余白の残る部分に、淡いインクの控えの筆跡が残っていた。
「この紙、端に“報奨金未計上”と墨で控えられているのですが……これは、書き写しても良い記録ですか?」
フィアネスは絶句した。
書類を奪うように引き取ると、肩を震わせながら、かろうじて声を絞り出す。
「だ、だめです! だめですから! これ以上、何か出てきたら……記録課が死にます……!」
部屋の隅では、紙を撫でていた第2記録室の補佐官が「……報奨金の走り書きとはまた珍品ですね……」などと呟いていたが、もはや誰も止める気力はなかった。
そして、その日の夕刻。
記録課全室に、正式な通達が回る。
「記録課において、裏紙の使用を全面的に禁止する」
──記録管理局長名義、発出。
書類整理の手を止め、フィアネスはその通達文を見つめたまま、乾いた笑みを漏らした。
「……これ、予算削減じゃなくて、記録課抹殺計画だったのでは?」
──心の底からの疑念だった。




