文官記録課の朝は早い──第三回
「おはようございます……本日分の書式、確認できましたので──」
羊皮紙の束を抱えて部屋に入ったフィアネス=ベイルは、足を止めた。
「……あれ、あの……?」
記録室の中央。誰もいないはずの長机には、既に二人分の椅子が引かれ、筆記具が整っている。片方の席のそばには、半分飲まれたままの湯呑と、乱雑に開かれた書類束。
そして、もう一方には──
「……ひょっとして、寝てますか?」
書類の影から、軍務上がりの強面実務官が顔を覗かせた。トール=バレック。机に頬杖をついたまま、静かに寝息を立てている。なぜこの人がこんなに自然に寝ているのか、フィアにはまだ理解できない。
──と思った矢先、部屋の奥の引き戸がバン、と音を立てて開いた。
「おい、トール。あの後処理の見積もり、もう一回詰め直し──あ?」
その声にトールが目を覚ますのと同時に、フィアが背筋を正す。
「おはようございます、主任代理!」
「……お、おう。なんだ、おまえ、もう来てたのか」
エグバート=グランヴィル。第四記録室の主任代理。書類の整理ではなく、人間の対応力で押し通す“現場型”の実務官。軍服のような実務着を羽織り、乱雑に束ねた報告書を片手に現れた彼は、フィアネスを見るなり、ふと眉を上げた。
「で、フィアネス。今日のアレ、どこまで進んだ?」
「“アレ”の指す対象が多すぎます、主任代理」
「そりゃそうだ」
開き直ったかのようなエグバートの返しに、後ろからトールが欠伸を噛み殺しながら呟いた。
「……少なくとも三件“アレ”があったな。昨日の夕方だけで」
「うん、一番ヤバいやつにしよう。あの仮帳簿の補填案、もう一回通せるか確認しておきたい」
「なら俺が引き取ろう。……フィアネス、補填分の集計、出てるか?」
「はい、こちらに。途中経過ですが──」
フィアネスが差し出した羊皮紙を受け取りながら、トールは軽く頷いた。
「よし、これ持って一旦別室行ってくる。頼むぞ、エグバート」
「あいよ。……で、おまえは?」
「私ですか?」
「うん。おまえなにか報告なかったか? ほら、あの第六との調整分──」
そのとき、入口から涼しい声が響いた。
「その件なら、既に書面で送ってあります。今朝六時前に」
入ってきたのはフロイライン=リースフェルト、通称フロイ。第六記録課の実務官で、外部連携の調整において“敵に回したくない文官代表”として有名だ。
「第六課からの指示として、正式な通達と位置づけました。そちらの記録室で保管する場合は、別途受領印を」
「ああ、はいはい。……で、何しに来た? それだけ伝えに来たわけじゃねぇよな?」
「……それ以外に用があったらまずいですか?」
「まずくはないけど、珍しいなってだけだ」
エグバートが肩をすくめると、フロイは机に一つの封筒を置いた。
「次週の管轄調整。先に目を通しておいてもらえると助かります。……ああ、それと」
フィアネスの方にちらりと視線を向ける。
「あなた、昨日の照合結果、細かい注釈つけてましたね」
「えっ、あ……はい。もしお目通しいただけたなら──」
「無駄に丁寧でしたが、要点は押さえてありました。……無駄に、ですけど」
軽く皮肉を乗せた言い方に、フィアネスがうっすら顔を赤くする。
「リースフェルト三等書記官。助言として受け取ります」
「ふん。受け取る余裕があるのは何より」
返答を終えたフロイは、エグバートの方へも軽く目配せしてから、再び封筒を指先で押し出した。
「これで失礼します。午前の審議に戻らなければ」
「おう。送られてくるだけの調整文書より、こうして顔を見せてくれるほうがこっちはやりやすいけどな」
「そちらの記録室に余裕があれば、の話ですね」
さらりと刺して、フロイは出ていった。
残されたフィアは、静かになった部屋の中でぽつりと呟く。
「……あの方が、リースフェルト三等書記官……」
「おまえ、初対面だったか?」
エグバートが目を細めて問うと、フィアネスは頷いた。
「記録課では有名ですし、遠巻きには何度かお見かけしましたが、こうして話したのは初めてで」
「ま、あの兄貴が兄貴だからな。実力主義の下で生き残るしかなかった奴だ」
「……でも、優しかったです」
「え?」
「遠慮なく言われましたけど、その分、ちゃんと見てくださってるというか……」
その言葉に、エグバートが一瞬目を細めた。だがすぐに、ふっと笑う。
「ま、おまえも慣れてきたってことだろ。半年経って、それだけ受け取れる余裕が出てきたんだよ」
「……そう、でしょうか」
ひと呼吸置いて、フィアネスが問いかける。
「主任代理。私は、ここで、役に立てていますか?」
「そりゃあ──」
答えようとしたエグバートの背後で、別室から戻ってきたトールが応える。
「──十分すぎるくらい、な」
その声に振り返ったフィアネスに、トールはおだやかに笑いかけた。
「書類の足音がするようになったら、それはもう立派な記録室員だよ。おれが言うんだから、間違いない」
「……ありがとうございます」
微かに笑みを浮かべたフィアネスの手元では、まだ温かい湯呑が静かに湯気を上げていた。




