『たった一日で“第4の壁”を悟った男』──記録室・最短記録保持者の告白
「……で、これが君の配属先。第四記録室だ」
そう言って案内役の中堅書記官が俺の背中を押したのは、ちょうど朝の始業のチャイムが鳴る直前だった。
「新人は……俺ひとりですか?」
「うん。ま、がんばって。あ、忠告。主任代理に噛みつくのはやめとけ。死ぬぞ」
は?
何それ、脅しか? いや、ブラックジョークだよな、たぶん。
恐る恐る扉をノックし、中に入った瞬間──
「おーい、トール。こっちの山片づけたら、例の照合作業、回しといてくれ」
「了解。あと、昨日の若手がやった草稿、構文直した。書き直させる?」
「あとで俺が見る。通せそうならそのままで。で──」
地響きのような声とともに、視界に入ったのは獣のように書類を噛み砕いて処理している黒髪の男と、その横で書式を淡々と整えている銀縁眼鏡の整備士然とした人物。
え、あれが、主任代理? いや、現場の軍人じゃ……?
「……新人?」
気づかれた。黒髪の方──エグバートと名札にある男が、視線をこちらに向ける。
「名前」
「ひゃ、ヒューゴ・ラントと申しますっ。新規配属、本日付で──」
「了解。じゃあ今日の昼までに、そこにある前月分報告書の照合済ませて。構文も規定変更後でチェック。あ、何か分からなかったらトールに聞け」
「えっ」
俺の返事を待たず、エグバート主任代理は再び書類の山に突撃した。
……え、まって、説明とか? 研修とか?
「トールって、あの……どなた……?」
「俺だ。はい、これが該当文書の構文ガイド。で、改定分は赤字でマーカー済み。こっちは先月の提出データ。照合はこっちのフォーマットに手書きでよろしく」
整いすぎてて逆に怖い。完璧な業務設計だ。だが──
「すみません、あの……最初に何から?」
「うん。何からでもいいよ。全部必要だから」
トールさんの微笑が、怖い。
***
(中略──午前中の修羅場)
「……合わない、合わない、こっちの構文が旧式で……え、通してる? なんで!?」
「合わないように見えて通ってるのは、エグの現場判断で裏コードが動いてるからだよ」
「裏!?」
「つまり“現場で通すべき案件は通せ”って、例外規定。そっちは記録扱いだから、通した上で残すんだ」
「はあ!?」
何言ってるかわからん。規定と実務が……バラバラだ。
「ヒューゴ」
再び、主任代理の声が飛ぶ。
「その報告書、違和感あったら赤札つけとけ。後で通すか潰すか判断するから」
「違和感の基準は!?」
「あるかないかだ」
「あるかないかって!?」
「嗅げ」
「無理です!!!」
***
(昼休憩──という名の、死亡確認タイム)
「で、どうだ?」
トールさんが、湯を注いだ茶を片手に隣に座る。
「無理です……! あれ、仕事じゃなくて、戦争です……!」
「まあな。うちは“構文で戦争をする部署”だから」
「聞いてません、そんなの!」
「エグが通す。俺が整える。で、君は──」
「潰れました」
「正直だな。じゃあ午後は休んでいいよ。申請出す?」
「転属願いって出すと、何日で通るんでしょうか……」
***
(夕方──地獄を越えて灰になった俺)
「おい、ヒューゴ」
振り返れば主任代理。昼に比べればちょっとだけ、声の調子が柔らかい(当社比)。
「お前、明日も来る?」
「…………無理です」
「そうか。なら、次来るやつが潰れないように、お前が見たこと全部、メモしとけ」
「え……」
「明日には参考になる。……無駄にはしねぇよ」
えぐい。優しさが一番刺さるやつ。
◇◇◇
──こうして、ヒューゴ・ラント、第四記録室着任初日で転属願い提出。
それまでの最短記録「3日目で退職希望」を大きく更新する、「午前中で心が折れた新人」として名を残すことになる。
しかし、彼の残した“新入りメモ”は、後にこの部署へやってくることになる若き文官のため、密かに保管された。
それがどれほど貴重な道標になるか──当時の誰も、まだ知らなかった。




