文官記録課の朝は早い──第二回
王宮庁舎、庶務課第四記録室。
今日は珍しく、崩れかけの文書山も静かだった。
「……いい天気ですね」
思わずそんな言葉が口から漏れた。
そして、ちょっといつもと違うことにも気が付いてしまう。
「主任代理、今日はいつもより……袖が下がってますね?」
「ん、ああ、うっとうしくてな。すぐたくし上げちまうけど」
「でも、たくし上げたまま執務されてると、軍人っぽくてちょっと怖いです」
「軍人だもんな、もともと」
主任代理は、肩をすくめる。
書類棚にもたれてコーヒーを啜る姿は、ある意味“いつもの姿”。
だが、今日のぼく──フィアネスには、ひとつだけ気になることがあった。
「……あの、主任代理って、文官服はいつからちゃんと着るようになったんですか?」
「は? お前、今なんて言った?」
「い、いえっ、その、いまはたくし上げてるだけで、ちゃんと記録官服は着てらっしゃいますけど、昔は──」
「おい、誰に聞いた」
「こ、この前、廊下で……年長の方が“昔はすごかった”って……」
主任代理の目が、じろりと細まった。
しまった、地雷だったか。
と、そこへタイミングよく、件の“年長の方”が書類の束を抱えて入ってきた。
「おっ、いたいたグランヴィル。ちょっと書式の確認──って、あーあ。耳立ててるな、若造が」
「……主任代理、やっぱり本当だったんですね。初出勤の時、軍服で来たって」
「やめてやれ。あの頃のグランヴィルは、ヤンチャ坊主だったんだからよォ」
年長文官は、書類の束を机に置きながら、懐かしげに笑った。
「ったく、あの日の朝ったらな。廊下に軍靴の音が響いてさ、誰だって顔上げたら、あいつが現れたんだ」
「で、軍服……着てたんですか?」
「バッチリだ。上着の前、開けっ放しでな。手袋片方だけ、片手に引っかけてて──」
「お前、それ以上言ったら出入り禁止だぞ」
主任代理の牽制もむなしく、年長氏は腕を組んで得意げに続けた。
「ついでに言うと、髪もちゃんと櫛なんていれてない。
適当にひとまとめにしてるやつが、“新入り”って名乗った。
その瞬間、室長が盛大に書類を落としたっけ」
「そ、そんな姿で、文官課に……」
「ったく、門番がよく通したもんだよ。どう見ても“中央騎兵連隊の視察”って風情だった」
「……じゃあ、主任代理はそのとき、すでに文官試験には?」
「ああ。免状持ってたよ。室長が『これは何かの間違いか?』って呟いてたけどな」
「……で、なんて言われたんですか?」
ぼくがそう尋ねると、主任代理は肩をぽきりと鳴らして、コーヒーをひと口。
「“軍服なんぞ着てくるな、馬鹿者!”」
「ひ、ひどっ」
「今なら理解できる。だが当時は──反抗期全開だったんだよ」
主任代理は椅子にどかりと腰を下ろすと、机に肘をついて言った。
「文官服なんざ“くたびれた羊”にしか見えなかった。
書類だけが武器で、現場にも出ない連中──って思ってたからな」
「でも……いまは、その文官服、毎日着てますよね?」
「まあな。今は、これが“前線装備”って思ってる」
その口調は、どこか照れたようで、でも誇らしげでもあった。
「主任代理。さっき年長さんが“ヤンチャ坊主”って……あれ、今でも呼ばれてるんですか?」
「知らん」
「でも、主任。今も文官服、結構……着崩してません?」
「……は?」
「袖、いつもたくし上げてますし。首元もわりと開いてますし、あとネクタイの結び目、左右ズレてます」
「うるせぇな、細けぇとこまで見るな」
むすっとしながらも、主任代理の手が無意識にネクタイを直すのを見て、思わずぼくは吹き出してしまった。
「そういうの、たぶん“主任代理らしい”って言われてますよ」
「誰にだよ」
「こないだ、第六の人が言ってました。“第四のゴリ押し主任”って」
「……」
「“理屈じゃ勝てないから、応援だけはする”って言ってました」
主任代理はぐっと拳を握りかけて、ため息に変えた。
「──そいつには缶詰を投げておく」
「投げるんですか!?」
その時、年長文官がもう一度、口を挟んだ。
「でもな、あの軍服出勤の日、オレはわりと感心してたんだぞ?」
「え?」
「文官の世界は、口だけ、紙だけって思ってるヤツもいる。
でも、軍服で乗り込んできたってことは、“力のある場所で、あえて言葉を選ぶ覚悟”があったんだろ」
主任代理は黙って聞いていた。
「だから今でもな、俺はお前がいるこの第四が、妙に落ち着くんだよ。
うるせぇけどな、芯が通ってる」
「……おだてて使う気だろ」
「バレたか」
ふっと、主任代理が笑う。
なんだろう、この人は──やっぱり“記録課らしくない”けど、それでも、ぼくは嫌いじゃなかった。
「……主任代理って、やっぱり記録室の暴れ馬ですよね」
「暴れ馬じゃねぇ。火消しだ」
「でも、登場シーンだけは完全に暴れ馬だったって聞きました」
「殴るぞ」
「フィジカルで来るのやめてください」
記録課の朝は、今日も騒がしく始まる。
そしてぼくは、ちょっとだけ──この職場が好きになった気がした。




