回覧板が届かない──紙だけ行方不明になりまして
「──で、その“回覧板”は、今どこに?」
朝の静けさがまだ残る第六文官局の一角で、リースヴェルト三等書記官――通称フロイ――の声音が低く響いた。
書類の山に囲まれた机、その中央に置かれたのは“王宮内回覧”と金で箔押しされた木板──の、表紙だけ。
「ですから、確かにぼくは昨日の午後一時、リースヴェルト三等書記官様宛で提出済みしました」
真正面に座るのは、庶務課から出向中の新人文官、フィアネス=エルステッド。
手元の記録表を指差して、言葉に迷いはない。
「いや。私の手元に来たのは、その……表紙だけなんだが?」
フロイが眉間を押さえる。
確かに署名欄はすべて空白で、肝心の中身──つまり布告案や意見票、添付の報告書一式がすっぽり抜けている。
「回覧板って、物理的に“板”で回す意味、ありますかね」
「あります。物理的にないと“誰が止めたか”明確にならないでしょう?」
「なるほど、だから今こうしてぼくが疑われてるんですね」
「自覚があるなら早い話だ」
ちょうどそのとき、ドアが乱暴に開いた。
「おーい、誰だ、俺の机に“王命”突っ込んだやつ!」
エグバート=グランヴィル。第四文官局の主任代理であり曲者現場文官が、紙束を片手に現れる。
「……主任代理、その紙束、何ですか?」
「なんか“机の横に落ちてた”って新人が拾って、俺のとこに持ってきやがった。
読む気もなかったが──ん? この様式、見覚えがあるぞ?」
エグバートは一枚めくり、目を細める。
「……これ、回覧板の中身か」
「はい、犯人確定です」
「待て待て待て! 俺は受け取ってねぇ! 落ちてたのを拾っただけだ!」
フロイが即座に席を立つ。
「つまり、回覧板の“中身だけ”があなたの机に落ちていて、“板だけ”が第六に届いたと」
「分離して回るって、回覧の意味ゼロじゃないですか……」
「分離したのは誰だよ!」
「私は、ちゃんと“板に綴じた状態で”お渡ししたはずです!」
「じゃあ、途中で解体したやつがいるってことか……」
その瞬間、三人の視線が一斉に、扉の外を通りすぎる庶務課の新人に向けられた。
「…………」
「お前かぁあああああ!」
捕まった新人がぽつりと口を開く。
「机の横に落ちてたんで、読んでもいいかと思って。
内容、ちょっとだけ見て、元に戻そうとしたら綴じ方が分からなくて……
とりあえず、紙と板を別々に戻しました」
「“とりあえず”でやるな!」
「回覧板はバラしてはいけません」
「報告書を“板”と呼んでる意味、考えろバカ!」
朝から響く怒声とため息。どこからか、無関係の誰かが呟く。
「──あぁ、また文官同士が揉めてるな」
だがその後、妙に丁寧に綴じ直された回覧板が、正規ルートを経て再び各部署を巡るようになったという。
それ以来、文官たちはこう呼ぶようになった。
“回覧板は、紙ではなく儀式である”──と。




