文官になった理由?──主任代理の昔話
朝の記録室は、まだ静かだった。
報告書の束も、今日のところは暴れ出していない。
ようやく“平和な朝”が来るかもしれない、
そんな淡い希望を胸に、ぼくは机についた。
──その時だった。
「……やっぱり、あいつも丸くなったよな」
「おい、聞こえるぞ。そこの“ヤンチャ坊主”が耳立ててる」
廊下を通りかかった年長文官たちの笑い声が、控えめに聞こえてきた。
“あいつ”って──まさか。
ちら、と視線を向ければ、コーヒー片手に書類棚に寄りかかる主任代理。
庶務課第四記録室、エグバート=グランヴィル主任代理。
話題の“ヤンチャ坊主”は、書類に目を通しているふりをしながら、耳だけ全開だった。
「……あの、“ヤンチャ”って」
「聞こえてたか?」
しれっとした顔で言うのだから、性質が悪い。
「主任代理って、もともと武官のご出身なんですよね?」
「おい、誰に聞いた」
「この前、書庫で……年長の方々が」
言いかけて、ぼくは黙る。
“根も葉もある噂”は、この職場では慎重に扱わないと命取りになる。
けれど、主任代理は意外にも、いつもよりは静かな笑みで返してきた。
「……ま、間違っちゃいねぇよ。俺の実家、筋金入りの武官家系だからな」
「えっ、でも、それじゃどうして……文官に?」
小さな問いだった。
でも、今思えば、これはかなりの地雷だったかもしれない。
主任代理は数秒だけ沈黙し、それからコーヒーをひと口飲んだ。
「──喧嘩だよ」
「……喧嘩?」
「親父と。派手にな。あのまま行ってたら、勘当コースだった」
ぽつりと、投げるような口調。
「うちの親父、軍人上がりでさ。伝統と規律が命。
兵の前ではどんな命令でも即応、上意下達がすべて、って人間でさ。
俺が“文官になる”なんて言い出した瞬間、家の中が吹き飛んだ」
「……っ、それって」
「本気で止められたし、殴られたし、蹴られた。
だから殴り返した。倍にして」
「えええ!?」
「当然、親父には敵わなかったけどな。
で、兄貴が仲裁に入ってさ。親父の腕をへし折る勢いで止めてくれた」
「それ、仲裁って言うんですか……?」
「兄貴がいなきゃ、たぶん俺は今ごろ、勘当されて森の中で木でも切ってたと思うぞ」
冗談めかして言うその声に、でも、どこか本気が混じっていた。
「……でも、どうして文官になったんですか?」
「ん?」
主任代理は、窓の方をちらりと見た。
「俺、言葉ってのは面倒なもんだと思ってた。
軍人の世界は命令一つで済む。だけどな、それじゃ“守れない”もんがあったんだよ」
「守れない、もの……」
「俺の家、軍閥よりの武家なんだわ。
だから、盗賊の鎮圧レベルの出動っていうのはよくあったんだ。
そんな時──現場で、書類一つが足りなくて、補給が遅れて。
前線に出てた兄貴とも思ってた連中が何人も死んだ。
形式がどうとか、印がどうとか、そんな理由で」
低く、でもはっきりとした声。
「その時に思ったんだ。
……戦場に紙一枚で命を賭けさせるなら、その紙の書き方から変えなきゃダメだ──って。
あんなバカな理由で誰かが死ぬなら、その仕組みを変えてやるってな」
「……」
「ま、理屈っぽく言ってみたけど、実際はむしゃくしゃしてただけさ。
親父の言う通りにはなりたくなかった。それだけだったかもしれないな」
そう締めくくった主任代理の横顔は、どこか少年みたいで。
ぼくは思わず、口元がゆるんだ。
「……主任代理って、叩き上げの狂犬ですよね」
「誰が狂犬だ、誰が」
ぶすっとした顔になるのが、また似合っていて。
「でも……その、“仕組みを変えてやる”っていうの、ちょっとかっこよかったです」
「それ、誉めてる?」
「もちろん」
主任代理はふっと視線をそらして、机の上の報告書を手に取った。
「……まぁいい。どうせ誰も理解してくれないからな。お前くらいだ、ちゃんと聞くの」
「それ、誉められてます?」
ふふっと笑ったぼくに、主任代理が投げてきたのは、未処理の書類だった。
「ほら、黙ってないで仕事しろ。“言葉”が世界を回してるなら、“記録”はその燃料だ。サボってたら止まるぞ」
「了解です!」
こうして、今日も記録室の朝が始まる。
喧嘩と反発で飛び出してきた、狂犬みたいな上司。
でも──その背中を、少しだけ追ってみたいと思った。
「……でも、主任代理って、あれですね」
「なんだよ」
「実家でも宮廷でも、ずっと“火種”だったんですね」
「黙って仕事しろ」




