どうしてこの列だけ黒塗りなんですか!?──本日の“使途不明金”報告
庶務課第四記録室、朝九時。
机に広げられた帳簿の一ページを前に、エグバート=グランヴィルは頭を抱えていた。
「……フィアネス。これ、どう思う?」
いつもの調子で淡々と仕事を進めていた部下が、静かに目を上げる。
「どの点についてでしょうか。
形式は整っており、提出期限内です。記入漏れも──」
「いや、そうじゃねえんだよ……見ろ、ここ。右の三列。
支出先、用途、担当部署。全部黒塗り」
「……確かに、不自然ですね」
不自然どころではない。
べったりと塗り潰された黒いインクが、どこか「見ようとするな」とでも言いたげに主張している。
「これ、誰が見ても“隠してる”って分かるぞ」
「ですが、報告書としては“記録された”扱いになります」
「なら、俺は何を見て承認すればいい!? “見えない帳簿”って、もはや詐欺じゃないか!」
珍しく感情的になる上司に、フィアネスは言葉を選びながら静かに返す。
「こうした形式は、“提出しなければ未提出として責められる。
出してしまえば中身で怒られる”という局面で採られることがあります」
「そりゃ分かってるけどな……
だからって、“誰かの気配だけ残して帰っていく幽霊”みたいな帳簿、朝イチで見たくなかった!」
「“誰かの気配だけ残して帰っていく幽霊”……
比喩としては、やや詩的ですが、不適切ではありません」
「なんだって!? おかしいだろ!?」
「ええ。ただ──」
フィアネスは帳簿を手に取り、塗り潰された部分の周囲をさっと確認する。
「提出者、いつもの人です」
「……マジか」
「第四課が出す“臨時費用明細”の七割は、彼が記録しています。
“帳簿担当の人”として、庶務課内でも有名ですよね」
「“有名”ってレベルじゃねえよ……。もう“様式美”の域だよ、これ」
この報告書の提出者は、庶務課第四の古株係員、通称“煙幕主任”。
帳簿の提出は誰よりも早く、書式も完璧。
しかし、肝心の中身は毎度“絶妙に黒い”。
「でも、困るんだよなあ……この書き方されると、上に上げられねえ」
「では、不備として返却しますか?」
「返したところで、“仕様です”って突っぱねられるだけだ。過去の事例、見てみろよ」
そう言ってエグバートが開いた過年度の帳簿も、やはり同じ様式だった。
・用途:特殊案件対応
・支出先:不開示(黒塗)
・署名:判別不能(墨太)
「これ、“呪詛返し”か何かか……?」
思わず呟くエグバートに、フィアネスが手元の資料を整えながら問いかけた。
「主任。ひとつ、お聞きしても?」
「ん?」
「こうした“使途不明金”に対して、過去に調査や是正が入った例は?」
「──ねえな」
即答だった。
不正の兆しはある。だが、誰も追及しない。理由はひとつ。
「“上もグル”ってことだよ」
「……」
「追っていい帳簿と、追っちゃいけない帳簿がある。
“黒塗り”ってのは、つまり、“これ以上は入るな”って線なんだよ」
だから、形式さえ整っていれば“受理”になる。
記録官としては不満だが、庶務屋としては──“日常の一部”。
「……でもなあ」
エグバートは椅子にもたれかかり、天井を仰ぐ。
「だったら最初から、“帳簿ごっこ”なんてやらなきゃいいんだよ……」
「ごっこ、ですか?」
「“記録”ってのは、“誰が、いつ、何をしたか”を残すもんだろ?
でもこれ、最初から“書くこと自体が芝居”なんだよ」
──なぜか、記録されている。
──だが、内容は読めない。
──なのに、受理される。
そこにあるのは“透明な帳簿”であり、真実ではない。
「俺はな、記録ってのは“真実に迫る手段”だと思ってたよ。でも、違うんだな」
「主任」
フィアネスが、ぽつりと呟く。
「その“芝居”を記録するのが、今の私たちの仕事です」
「……っ」
「誰が、いつ、どんな“演技”をしたか。
誰が“何も書かない”ことを選んだか──
そういう“痕跡”を、残すために帳簿はある」
「お前……」
「これは“帳簿ごっこ”です。
でも、その“ごっこ”すら、記録されなければ“なかったこと”になる」
真顔で語るフィアネスに、エグバートはしばし沈黙する。
「……ああ、もう。なんで俺の部下は、全員そういう方向で頭いいんだ……」
肩を落としつつも、どこか満足げな表情。
「じゃあ、こうするか。
“この黒塗りに関する調査は、現時点では不要”──って、備考欄に書いとけ」
「了解です」
「“提出者の意図を尊重し、解釈は次年度に繰り越し”って一言も添えとけ」
「それ、嫌味として成立しますか?」
「完璧に」
ふたりで頷き合い、帳簿の記録処理は完了した。
*
翌朝、再び帳簿が提出された。
「……おはようございます。主任、こちら、本日の“使途不明金”です」
「きたな……今日はどんな呪詛だ?」
エグバートが帳簿を受け取る。
“用途:外部対応(黒)”“支出先:非公表”──変わらない。
だが、ページの端に、こう書かれていた。
※記録者への迷惑が予想されるため、詳細開示を控えます。
ご理解とご配慮、感謝申し上げます。
「……なに、これ……“大人の対応”……?」
「まさかの謝辞付き黒塗りですね」
フィアネスが冷静に評する。
「……俺、この国の帳簿文化、嫌いじゃないかもしれない……」




