王太子の“妹溺愛”が炸裂した日──昇格理由:気に入ったから
今回は、“妹溺愛”王太子様の無茶ぶりに振り回された文官たちの奮闘劇です。
妹のひと声で、台所番から侍女へ──!?
本筋とは無関係の闇鍋SS、どうぞ軽い気持ちでお楽しみください。
朝の庶務課第四記録室。
静かな帳簿の海に、ひとつの波紋が落ちた。
それは、第六記録課からではない。正式な経由ルートでもない。
むしろ「どこからどう落ちてきたのか」が不明な──一通の、書類。
手書きの修正が雑に入っており、印影もやや滲んでいる。
それだけでもう「怪しい」のだが──。
推薦欄の筆跡に目を留めた瞬間、エグバート=グランヴィルは小さく呻いた。
「……王太子、直筆……か、これ?」
癖のある、力の入りすぎた筆跡。
どう見ても貴族書記の手によるものではない。
しかも──名前欄に記されていたのは、見覚えのない名。
「セリナ……? 誰だ、これは」
書類に記されたのは、“台所番からの特例昇格申請”。
職務適性審査を経ず、推薦のみで正規侍女への昇格を認めるという、非常手続き。
しかも、推薦理由は──
『妹が気に入ったから』。
「………………おい」
書類を手に、エグバートは遠くを見つめた。
これは……何かの冗談だろう? なあ、そうだよな?
だが、押された印は確かに“王太子”の花押。
冗談にしては、やたら正式すぎた。
* * *
「ええと……この書類、どうしましょうか」
困惑顔の若手文官が、机越しに問う。
当然だ。書類不備、手続き飛ばし、理由が個人感情。
エグバートは黙って数秒、紙を見つめた後──
「……うん、本気で書いてる。
これは……本気だわ。妹溺愛、重症だな、王太子殿下」
重々しく、ため息。
妹に気に入られたから侍女昇格。
そんな理由が、まかり通るか──
いや、通さなきゃならないのが庶務課。
胃が、きしむ。
「……仕方ない。通す方法を考えよう」
ぼやきながら、エグバートは帳簿棚へ向かう。
既存の“職務適性審査済”名簿から、流用できる形式を探す。
手近な帳簿と突き合わせ、関連部署との連結処理をでっちあげる。
「よし、“飲み物運搬業務の継続実績”に変更。……これで“適性あり”だ」
手際よく補足書類を整えるエグバート。
だがその表情は、苦々しい。
「だれか俺に胃薬と、あと倫理観をくれ……」
職権とは、時に正しさよりも、現実を回す力だ。
その現実が今、“妹の好み”で動いているというだけの話。
* * *
「──というわけで、正式に処理できました」
若手職員が、報告書を持ってくる。
そこにはしっかりと、“特例昇格・セリナ=ユング”の名が記されていた。
アリシア王女付き、正規侍女に抜擢──。
それが、王太子の一言から始まったとは、誰も思うまい。
「……セリナさん、運がいいですね」
感想混じりに、ぽつりと漏らした職員。
だが、エグバートは即答した。
「運じゃない。“妹力”っていうんだ、ああいうのは」
──溺愛王太子を持つ妹の、最強スキル。
そしてその言葉と同時に、机の引き出しから胃薬をひとつ。
今日も、庶務課第四記録室の午前が終わっていく──。




