“先輩”って呼んでたらしいわよ?──控室、今朝の話題は文官の名前
「──あの子、今朝また叫んだんですって?」
控室のテーブルで紅茶を注ぎながら、イレーヌが涼やかに言った。
「庶務課の新人文官、フィアネスくん。
『マジでそれ本名なんですか!?』って、
今度は文官局の資料室で絶叫したらしいわよ」
「本名……ああ、第六記録課の方ですね」
マティルダが苦笑交じりに応じる。
「フロイライン=リースフェルト。
記録上のお名前だけ見たら、まず間違えますわ。
“敬称”にしか見えませんもの」
「しかも男性。
しかも三等書記官。
胃にきそうなお立場ですわね」
「実際、胃薬を常備されているとか」
ナターリエがぽつりと挟んだ。
商人の娘らしい冷静な語り口で、ポットの蓋を軽く押さえながら注ぐ手を止めない。
「お母様が“次こそは女の子”って信じ切っていて、
女児名しか用意していなかったそうですわ」
「そ、それで……“フロイライン”?」
セリナが思わず手を止める。
「変更する時間もなかったそうよ。
もう名簿に登録してしまっていたとか」
「な、名前で苦労するなんて……
なんだか、気の毒というか……」
「むしろ、尊敬に値しますわね」
ナターリエが素直に言う。
「そんな名前で笑われても、
文官として確固たる実績を残されているのですもの」
「確かに。
文体統一や語彙規定では、すでに宮廷内でも知られた方ですわ」
マティルダの言葉に、イレーヌがふと唇を寄せて囁いた。
「──でも、そのフィアネスくんが、
“フロイ先輩”って呼んでいたらしいのよ?」
「……ぷっ」
セリナが吹き出した。
ナターリエが肩を震わせ、
マティルダもついに笑みをこぼす。
「それ……許されたのですか?」
「“口頭なら構いません”と仰ったそうですの。
書面では正式名でと」
「うわぁ……!
地雷と尊厳のぎりぎりラインですね、それ」
「それでも“先輩”と呼ぶなんて、
あの文官殿もなかなか度胸がありますのね」
「フィアネスくんも、本気で尊敬しているのでしょうね。
顔、真剣だったそうですもの」
「わたくし、一度だけお目にかかったことがあります」
マティルダが静かに言った。
「書類の件で伺ったとき、とても丁寧に対応してくださいましたわ。
……ただ、お名前を“フロイライン様”と申し上げてしまったのですけれど」
「それは……」
「目が、笑っておられませんでしたの……」
控室に、しんと一瞬の沈黙が落ちる。
「でも、なんだか好きですわ」
ナターリエがそっと言った。
「名前に苦労しても、ちゃんと働いている人。
そういう方って、支えたくなるというか……」
「わかります!」
セリナが勢いよくうなずく。
「こっちは朝からドレスと花冠と陰謀と戦ってるんです!
だから、真面目な人がちゃんと報われてると、救われるっていうか!」
「貴族の名にふさわしく、
その名を背負って生きておられるのですものね」
マティルダがそう言うと、
イレーヌもやわらかく微笑んだ。
「さて。
今日は“フロイ先輩”が控室の合言葉になりそうね?」
「セリナが間違えて本人に呼びかけないことを祈りますわ」
「わ、わたし、言いませんからね!?
そんな地雷、もう控室中で共有されてますってば!」
──こうして今日も、侍女たちの控室には紅茶と小さな噂と、ほんの少しの敬意が満ちている。




