断章|記録課報告・未提出案 ― 第二号抜粋より
「拐われたお姫様ですが、勇者ではなく魔王様を好きになりました 」では語られなかった記録課視点の断章です。
第1章第3話で触れた事件の裏側を、若きフロイとエグバートの目を通してお届けします。
第六記録課の資料室は、今日も薄暗く、埃っぽい。
石造りの天井には古い吊灯。
ひとつ、またひとつと灯りが揺れ、
静かな紙の海に影を落としていた。
棚の隅、分類番号の消えかけた引き出しを引いたフロイは、ふと手を止めた。
通常ならば見慣れた布張りの報告綴りが並んでいるはずの中に、ひときわ目立つものがあった。
封筒。
それも──官製ではない、
私的な便箋を折り込んだような、
異質な存在感をもったもの。
「……拾い物、でしょうか」
思わず呟いた声に返事はない。
だが、背後で軽く扉のきしむ音がした。
「おや?ずいぶん熱心じゃないか、新入りくん」
気配とともに現れたのは、エグバートだった。
制服の襟を少し崩し、書類を挟んだままの腕を壁にもたせている。
「記録課は発掘作業もするのかと思ってな。……で、それ、何だ?」
フロイは視線を落とし、手にした封筒をそっと持ち上げた。
封緘こそされていないが、丁寧に折り込まれた紙束が中に入っている。
表紙には、見覚えのない筆致で、ただ一行だけ。
《記録草稿──提出未定。閲覧注意》
「“閲覧注意”ですって。
これはまた……」
「自分で注意書きするやつは、だいたい注意されたい側だ」
エグバートが肩をすくめ、資料棚の角に腰を預ける。
フロイは唇を引き結び、封筒の中身に指をかけた。
──ここから始まるのは、ただの報告ではない。
彼らの“記録しなかった何か”を巡る、静かな追憶だった。
◇◇◇
封筒から取り出された草稿は、
淡い黄ばみを帯びた羊皮紙に、走り書きのような筆跡で綴られていた。
それだけでも、通常の報告文書とは異質だった。
フロイは、そっと冒頭に目を走らせる。
《以下、非公式に記録する。
王女殿下誘拐事件において、公式記録から洩れた行動の一部を──念のため、留め置く》
数年前、春先の王宮を揺るがせた未曾有の事件。
王女が姿を消したあの一日。
当然、記録課にも緊急指令が下り、各方面からの報告が集約された。
だが──この草稿に書かれていたのは、どの公式資料にも載っていない“隙間”の記録だった。
《第一報受理から、転移陣に関する操作記録を精査。
複数候補地の中に、一ヶ所だけ軍部経由ではない印があった。
照合作業を優先し、配置外の者に現地確認を依頼──》
「……配置外、ですか」
フロイがぽつりと漏らすと、エグバートが鼻を鳴らした。
「つまり“現場にいないはずの誰か”が、先に動いたってことだろ?」
「文体がぼかしすぎていて、特定はできませんね」
草稿は、その後の現地到達の経緯を淡々と綴っている。
転移先は、王都から離れた山間の屋敷。
管理者不明、表向きは空き家扱い。
だがそこにいたはずの王女は──
なぜか、既に外へ出る寸前だった。
《転移誤差はおよそ三〇秒。定点着地には成功。
だが、そこには既に“先行していた誰か”がいた。
王女殿下と接触し、明らかに動揺していた様子だったが、
殿下が最初に発した言葉は──「ありがとう」だった》
その一節を読んだ瞬間、フロイの手が止まった。
「……“ありがとう”?」
「書いたやつが気を利かせたんだろ。
名を明かさず、でも伝わるようにな」
エグバートは、傍らの古い棚から酒精紙を一枚引き抜き、そっと額に当てるようにして笑った。
「王命で動けなかった立場……
ある種の代行。
だが功績は、記録されていない。
いや、記録“できなかった”のか」
フロイは眉を寄せ、草稿の終盤に目を落とす。
そこには、たった数行──
けれど、異様に濃密な余白があった。
《あれは、記録すべきではない“個人的な場面”だった。
だが私は、目撃者として忘れない。
殿下があの者に向けて、心からの感謝を告げた。
あれが、救出劇の“真実の瞬間”であったことを──
私は知っている》
沈黙が、ふたりの間を支配した。
公式の文書には、ゼノ=グラナートの名が第一発見者として記されている。
だがこの草稿は──
その“直前”に、誰かが手を伸ばしていたことを確かに記していた。
それは、記録課員としてではなく、一個人の手で記された、静かな抗議にも似た文章だった。
「……これ、誰のことを指してるんでしょうね」
沈黙を破ったのは、フロイだった。
手元の草稿を見下ろしながら、問いかけというにはあまりに平坦な声。
エグバートは返答を急がず、しばらく棚の上の古い書類を弄ぶようにめくっていた。
そして、一枚の埃をかぶった目録をパタンと閉じて言う。
「“誰か”じゃなくて、“あの人”だろうな」
「は?」
「文体を見ろ。
“配置外”
“事前に動いていた者”
“王命には記されていない”。
──ぼかしてるようで、ほとんど名指しだ」
フロイは無意識に、草稿の一節を指でなぞった。
《その者の立場は、王命の外。
だが、王女殿下はその者に手を伸ばし、言葉を告げた。
──ありがとう、と。》
「……王命では動けない立場」
フロイが呟くように繰り返す。
「補佐的な役割を担える位置。
現場に近く、かつ記録には残らない。
……ある種の、代行」
「あるいは、隠し玉だな。
誰にも知られずに切るカードってやつだ」
エグバートの目が、冗談めかした光を帯びる。
けれどその声には、ひとつも笑みは含まれていなかった。
「で、その“ありがとう”は、公式には?」
「──なかったことになってますね」
フロイは、資料棚に寄りかかりながら、深く息を吐いた。
「最初に王女殿下に接触したのはグラナート公爵家嫡子、と記録されている。
転移陣を解析し、位置を割り出したのも“軍の手柄”として処理されている」
「じゃあ、誰も“あの瞬間”の記憶は持たない。
持っていたとしても、口にしない」
「ただ一人を除いては」
フロイの視線が、草稿の署名欄──
無記名のまま、空白の終端へと向けられる。
そこに名前はない。
だが、文体が語る。筆跡が示す。
そして、たった一文──
《記録するべきではないと判断した。
だが、私の目に焼きついて離れない。
王女殿下が“ありがとう”と告げたその姿だけは、決して忘れられない》
その行にだけ、インクの滲みがあった。
湿気のせいか、それとも──
別の理由か。
◇◇◇
エグバートがふと、真顔でフロイに尋ねた。
「で、提出するか?」
視線だけが合った。
フロイは、ほんのわずかに首を横に振った。
「……そうか」
エグバートはそれ以上、何も言わなかった。
静かに片手を伸ばし、封筒の端を整えると、脇の箱の中から小さな札を取り出した。
“未提出・確認保留”──すでに擦り切れた文字が記された札だった。
「……“なかったこと”にするんですね」
そう口にしたフロイの声に、非難や皮肉はなかった。
ただ、納得しかねる若さと、抑えきれぬ知性の鋭さが滲んでいた。
「違うさ。記録されなかったからといって、“なかったこと”になるわけじゃない」
エグバートは封筒を持ち上げ、静かにそう言った。
「この草稿を提出すれば、書類上は誰かの“手柄”になるだろう。
だがその瞬間、内容は精査され、言葉は削られ、名前と日付と番号が付され──
“事実”ではなくなる」
「事実では……なくなる」
フロイが、その言葉をゆっくりと咀嚼するように繰り返した。
「これは“記録”じゃない。
これは、見た者が、自分にしか書けないと思った“記憶”だ」
エグバートは封筒を手にしたまま、壁際の古い棚の引き出しを開ける。
中には、どのファイルにも綴じられていない報告書の断片たちが、
まるで時を止めたまま、静かに眠っていた。
その一角に、封筒をそっと収める。
「……では、ここに?」
「ああ、“未提出資料”フォルダだ。
文官なら一度は聞いたことがあるだろ。
“第六記録課・灰色棚”。
名前は知られずとも、内容だけは本物が揃ってる」
カチリ、と引き出しが閉じられた。
フロイはしばらく沈黙したあと、ふと漏らすように言った。
「記録されなかった“ありがとう”……か」
「そういうのを覚えておくのが、俺たちの仕事だろ?」
エグバートの声には、いつもよりいくぶん静かな温度があった。
整理室の窓の外で、夕日がわずかに傾いていく。
そして、ふたりの文官は、それぞれの席へと戻っていった。
記録されなかった一言を、
封筒の向こうに残したまま──
※この断章は「拐われたお姫様ですが、勇者ではなく魔王様を好きになりました 」第1章第3話「護衛のくせに、距離、近すぎるのよ」に登場した場面の補完です。
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