報告書より、先に心が折れました──フィアネス、貴族語の翻訳地獄に沈む
「……ええと、“御芳情を賜り光栄の至り”……?」
「そこ、“深甚なる感謝を以て御礼申し上げます”に変えておけ」
「えっ、でも“光栄”って言ってますよ?
感謝じゃなくて──」
「“貴族語”はそういうもんだ。慣れろ」
──王宮文官局・第四記録室。
新人文官のぼく、フィアネスは、
机に積まれた“報告書ドラフト”の山に呆然と立ち尽くしていた。
「……この“何卒今後とも御高配を賜りたく”って、
つまり……“よろしくお願いします”ってことですか?」
「そうだ。“厚遇を賜る”は“面倒見てもらってます”。
“懇請の段、ご諒承賜り度く”は“お願いきいてくれると助かります”」
「……翻訳が必要な文官局って、どうなんです?」
「王宮だぞ?」
即答だった。
ぼくの上司、主任代理のエグバート氏は、
昼前から“貴族語⇔人間語”の変換作業に付き合ってくれている。
そして、隣の席に臨時で詰めていた、
もう一人の胃痛持ちが薬草茶を飲みながら口を挟む。
「まったく……
こんな基本すら理解していないのに、報告書の草稿に回すなんて」
「す、すみませんフロイラインさん……」
「謝るな。
むしろ指導するこっちの胃が痛い」
「えぇっ!?」
フロイライン三等書記官。
言葉の鬼、文体の番人。
“前例と整合性がすべて”を信条に、
今日も一文字単位で文書を監視している。
「ちなみにその“御用命の節は随時拝承致したく”は、
“お呼びとあらばすぐに馳せ参じます”の意だ。
決して“こちらから伺います”ではない」
「逆に怖いですね!?
なんで回りくどいのに意味が限定的なんですか!?」
「貴族語だからだ」
ああもう、どうして誰もそこに疑問を抱かないんだ。
まるで自然現象みたいに“そういうもの”として流されているけれど。
「はぁ……翻訳表とか、ないんですか?」
「あるぞ。
第五局の“旧語表現対訳一覧表”だ」
「それください!」
「※三巻構成、全ページ手書き写本、館内閲覧のみ」
「無理です!!!」
机に突っ伏した。
やってられない。
貴族語ってなんなんだ、もはや暗号じゃないか。
「……だいたい、なんでわざわざこんな言い回しに……?」
「“曖昧にしておくことで責任を回避できる”からだ」
「おまえ、昨日の“再検討の余地を含みつつ検討を重ねた結果”って文書、見たろ」
「見ましたけど、それ結局どういう意味だったんです?」
「“結論出てないけど出した風”ってことだ」
「嘘でしょ!?」
文官の世界は嘘でできている。
……いや、嘘というより、“言い切らないことで真実をぼかす技術”に満ちていた。
「よし、ここまでだな。あとはお前が一人でやってみろ」
「え、これ全部を……一人で……?」
「報告書十通分、貴族語でまとめて提出だ。
納期は明日昼」
「胃がっ……胃がぁ……!」
逃げたい。
でも逃げられない。
なぜならこれは“新人への試練”であると、さっきフロイラインさんが言っていたから。
こんな拷問みたいな試練、誰が決めたんだ。
「おい、新人」
「は、はい!?」
「一応、コツを教えといてやる」
主任代理が、不意に少しだけやさしい声で言った。
「“お前が言いたいこと”を先に決めろ。
あとは、どれだけややこしくできるかを考えろ」
「ややこしくするのが前提なんですか!?」
そして隣からは、フロイラインさんの冷静な補足。
「“誰も責任を取りたくないとき”、
最も洗練された文体が生まれる」
「怖っ!!!」
──それが、王宮文官の世界。
報告書より、まず先に心が折れる。
けれど今日も、文官たちは淡々と仕事をこなしていた。
「……えっと、“本件につきましては各所より異論なき旨を拝受いたし”
──って、つまり“みんな黙ってたので反対されなかった”で、合ってます?」
「正解だ。ちょっとだけ成長したな、若造」
胃の痛みに耐えながら、今日も一枚。
“貴族語”という名の、暗号文書を書き続ける──




