近衛騎士詰所、その夜──誰も口を開かなかった
「……おい、本当に“あれ”を止められると思っていたのか?」
沈黙を破ったのは、カラムだった。
鉄の胸甲を外しながら、低く、
誰にともなく投げつけるような声で。
「やめろ。誰も、笑ってない」
ラドウが短く応じる。
手袋を投げ捨てた手が震えているのは、
汗のせいか、恐怖のせいか。
「でもよ、見たろ? あの“圧”。
剣を抜こうとした瞬間、腕が──動かなかった」
「……ああ。
あれは、もう“戦う”とかいう次元じゃなかったな」
「近衛騎士として……じゃない。
あれは、人として抗えない、“何か”だった」
詰所の空気が重い。
誰も酒に手を伸ばさない。
護衛任務のあと、いつもは軽口が飛び交うこの部屋が、
今夜だけは異様に静まり返っていた。
「おまえら……本当に、姫様が“さらわれた”と思ってるのか?」
ぽつりと、年若い騎士見習いが問いかける。
皆の視線が、一斉に彼に集まった。
「“さらわれた”……だと?」
ラドウが低く笑った。
笑ってはいたが、その瞳はまるで氷のように冷えていた。
「“抱きかかえられて”、名を呼ばれて、“連れていかれた”。──どこが、だ」
言葉の端々に滲む怒気。
でも、それは怒りの矛先を見失った男の苛立ちでもあった。
「姫様……自分の足で、一歩も動いていないのに……」
「なのに、誰も止められなかった。誰も、叫ぶことすら──できなかった」
「……ゼノ様だけだった」
誰かがぽつりと漏らした。
「ゼノ様が、唯一、剣を抜こうとした」
「そして──吹き飛ばされた」
深い沈黙が、また落ちる。
「エドワルド殿下も、最後まで剣に手をかけていた。
でも……抜けなかった」
誰かが肩を震わせた。
それは恐怖ではなく、悔しさだった。
「俺たちが守るべき姫君を、“魔王”に攫われた。
そんな事実だけが、今、残ってる」
「だけど……あの人、最後に言った。
“仮面はもういいだろう”って」
「……ああ。俺も聞いた」
「姫様、あの一言で……
泣きそうな顔して、頷いていた」
それは、確かに“攫われた”のではなかった。
ただ、選ばれたのだ。
「……どうするんだ、俺たち」
「……どうもしない。命令がなければ、動けない」
「でも、あの人が戻ってこなかったら?」
「それは──」
詰所の扉が、唐突に開いた。
「失礼する」
静かな声と共に現れたのは、セイルだった。
その制服には、泥の痕と、僅かに焦げ跡が残っている。
「……どうだった?」
「──行方は、つかめませんでした。
転移魔法の痕跡も、探知を阻む“何か”が……」
言いかけた言葉を、彼自身が噛み殺す。
「そうか……」
「ですが、王太子殿下より指示がありました。
“明朝、第一近衛隊を招集せよ”とのことです」
騎士たちが顔を見合わせる。
「追跡か?」
「それとも、……正式な対応?」
誰かが問うたが、セイルは答えなかった。
ただひとつ──
「……王太子殿下は、最後にこう仰いました。“必ず、連れ戻す”。と」
その言葉に、全員が息をのんだ。
それは、“戦争”の宣言にも聞こえたからだ。