姫様が“攫われた”?──控室にて、混乱、そしてパニック
「──って、どういうことですの!? 姫様が攫われたって、冗談ですよねっ!」
控室の扉が開いた瞬間、セリナは叫んでいた。
椅子から跳ね起きて、入り口に飛び込んできた年長侍女に詰め寄る。
「ちょ、ちょっと落ち着いて、セリナ……!」
「落ち着けますか!?
控えの騎士団全員が走り回って、女官長様は顔面蒼白、
しかも、控えの馬車が一台も残ってないって聞きましたのよ!?
なにがどうなってるんですのっ!」
「……ま、まぁ、わたしは控えの給仕担当だったから詳しくは……
でも、姫様が“誰かと一緒に消えた”って噂は、たしかに……」
「それ、“攫われた”ってことじゃないですの!?
誰に!?
まさか誘拐!?
いや駆け落ち!?
え、夜逃げ!?」
「夜逃げってあんた……!」
それはそれで大問題だ。
別の侍女が思わず頭を抱えるが、
控室の空気はそれどころではない。
全員が混乱しきっていた。
「だって、わたくし……
昨夜までずっと、姫様の準備に付き添ってたんですのよ!?
ドレスの裾の補整からティアラの角度まで、完璧に仕上げて……
それがっ!」
「ちょ、セリナ、落ち着いて!
泣かないでってば!
まだ“攫われた”って決まったわけじゃ──」
「でも、でも……
“黒い礼装に紅玉の瞳”の男がいたって話、聞きましたわよ!?
見た人がいるって……!」
「え、なにそれ?」
「“名乗った”らしいのよ。
“レオナルト=アルセイン”って──」
「……は?」
ぴたりと空気が止まる。
「“魔王様”の名前ですわ」
「──はあああああ!?!?」
セリナの絶叫が、控室の壁を震わせた。
「魔王!?
絵本の中じゃなくて!?
本物!?
角とか生えてる!?」
「……それは知らないけど、
とにかく真っ黒な礼装で、近衛騎士が誰も止められなかったって話よ」
「なにそれ!?
王宮の警備、なにしてたんですの!?
あの鉄壁の近衛隊が、素通し!?」
「“見えなかった”らしいわよ?」
「見えなかった!?
ちょっと待って、なにそれ!?
透明マント的なやつ!?」
「違うわよ!
空気ごと支配されたみたいに、
“誰も声をかけられなかった”って……」
「そんなの、魔法じゃないですの……!?
って、あの人、“魔王”ですわよね!?」
「だから言ってるじゃない」
「えぇぇぇぇっ!?」
セリナは頭を抱えてその場にしゃがみ込んだ。
他の侍女たちも、どよどよと騒ぎ出す。
「じゃあ、本当に連れ去られたって……?」
「でも、“無理やり”って感じじゃなかったって……
ゆっくり歩いて、手を取って──って……」
「え、それって……
攫われたんじゃなくて、“行った”……?」
「……自分で?」
「うそでしょ!? そ、そんなの……」
「──でも、姫様なら」
控室の隅。
静かにお茶を淹れていた最年長の侍女がぽつりと呟いた。
「……ちゃんと、“選んで”行かれたんじゃなくて?」
沈黙。
誰もが、言い返せなかった。
「……え、それってつまり、“駆け落ち”?」
「違いますわよ!
相手、“魔王様”ですわよ!?
しかも、誰も呼んでないのに来たんですのよ!?」
「むしろ、どうやって来たのよ!?」
「知らないわよ!
馬車どころか、空から現れたって噂までありますのよ!?」
「なにその異次元移動……!
こわっ!」
「でも、姫様は無事なんですわよね?」
「……誰も、そこまでは知らないみたい」
再び、空気が重たくなった。
けれど──
「……もういいですわ!」
セリナが突然、叫んだ。
「控室の片づけをします!
床に倒れても意味がありません!
わたくしたちは裏方ですから!
お仕事、いたしましょう!」
「賛成!」
「断然賛成!」
「むしろそれしかできない!」
控室の空気が、ようやく少しだけ和らいだ。
けれど──
誰もが、心のどこかで理解していた。
姫様は、もう“戻ってこない”。