攫われた姫は、何を思っていたか──あの“微笑み”の意味
「なあ、おまえ……見てるか」
「バカ、見ねぇやついるかよ。王女様だぞ。あれが“本物”だ」
ざわ、という空気の波。
けれど俺たち給仕組は、銀盆を手にしたまま、完全に動けなくなっていた。
「うわ……ホントに歩いてるよ。絵かよ……」
「しかも仮面なし。いや、顔が“仮面”か? 綻んでもねぇ……」
「……なのに、綺麗って、どういうことだよ」
真っすぐで、冷たいのに、どこか温かい。
視線の一撃で場が凍るのに、背筋が伸びるような、そんな感覚。
“本物”って、こういうのを言うのかもしれない。
「ってか、あれ、隣……グラナートの御曹司じゃね?」
「出たよ……テンプレ貴族の極み。しかも似合っちゃってんのが腹立つわ……」
思わず、隣のやつと顔を見合わせた。
あれが“公式ではまだ婚約者じゃない”とか、本気で言ってんのかってレベルだ。
「なあ、今日、誰と踊ると思う?」
「どうせ、貴族の順番で決まってんだろ」
……そう思ってた。なのに──
バン、と音もなく扉が開いた。
空気が、ひゅうって吸い込まれるみたいになって、音が消えた。
「……誰だ、あれ」
「黒──あれが、“黒”か?」
深すぎて、逆に光を吸ってる。
着ているのは漆黒なのに、輪郭がかすむほど、溶けていくような闇。
なのに、その影は、確かに此方に近づいていた。
「え、ちょ、なんか、やべぇ気配してんだけど」
「詠唱、してないよな? それで“浮いた”ぞ今!?」
「つーか、どこから入ったんだよあの人!」
警備は? 通された記録、あったか? 誰の紹介状で──
っていうか、あれ、人間か?
内心でツッコミまくってるけど、口は乾いて何も出てこない。
ふ、と一歩進んだ。
その瞬間、時間が止まった。
「──“迎えに来ただけ”って……今、言ったか?」
「うわ、ちょ、姫様の目、見たか?」
「見た。ていうか……なんであんな、安心した顔してんの……?」
誰よりも無表情で、誰よりも冷ややかだったあの王女様が──
たった今、微かに、まばたきをした。
それだけで、場の空気が揺れた。
「まさか、知り合い……いや、あれは──」
「魔王、か……?」
震えた声で誰かが呟いた。
でも、誰も否定しなかった。できなかった。
「てか、今、名前で呼ばれたよな」
「“仮面、もういらないだろ”だと……やば、鳥肌立った……」
「なにそのセリフ、少女漫画かよ……」
「……いや、むしろ劇場版ラスボス。俺、泣きそうなんだけど……」
そのとき。
ふ、と姫様が微笑んだ。
ほんのすこし、口元が和らいだだけなのに。
ざわり、と。
心がかき乱された。
「──今の、反則」
「はい、アウトー。あれはもう、戻ってこねぇわ」
ふたりが並んで歩き出す。
誰も止めない。止められない。
あんなの、止めたら呪われそうだし。
ていうか、空気が、“止めるな”って言ってた。全力で。
「……なあ」
「ん」
「攫われたんだよな、あれ」
「うん、間違いなく」
「なのに、見送っちまったよ。拍手しそうになったわ」
「俺はちょっと泣いた」
「バカか」
「うるせぇ。男のロマンってやつだろ」
気づけば、扉は静かに閉まっていた。
ざわめきもどよめきも、言葉にできずに、誰もがただ立ち尽くしていた。
……これ、あとで怒られたりしないよな。
給仕のくせに、俺ら何もできなかったわけだけど。
いや、無理だって。
あれはもう、“止めちゃいけない何か”だったんだよ──多分、な。
銀盆を持ったまま、ようやく足が動いた。
でも、心臓の鼓動だけは、まだ落ち着きそうになかった。