その夜、扉がひとつ開いた──“誰も止められない”存在
「……気づいたか?」
「ええ、扉。誰も動いていないのに……勝手に開いた」
薔薇の間の空気が、一瞬にして変わった。
その場にいた誰もが気づいたのだ。言葉にはできない、だが確実に“異質”な気配に。
「風が……逆流してる?」
「ありえない。外は閉じているはず……」
空調ではない。魔法障壁の異常でもない。
これは、“何か”が入ってきたという確信──いや、“降臨した”という表現のほうが正確だった。
そして、
「……招かれていないのは承知の上だ」
その声が落ちた瞬間、空気が変わった。
低く、艶やかで、それでいて圧倒的な重みを持つ声音。
「誰だ……?」
「いや、まさか、あれは──」
「黒髪……黒装束……赤い、瞳……」
「レオナルト=アルセイン……っ!」
誰かが名を叫んだ瞬間、ざわめきが悲鳴に変わった。
騎士たちが一斉に動き出す。だが──
「やめろ」
たった一言。
それだけで、全ての動きが凍りついた。
「……な、んだ、今の……」
「声……だけ、なのに……剣が、重い……!」
魔力でも、威圧でも、殺気でもない。
ただ、“絶対”という力だけが、そこにあった。
「……おい」
「……ああ」
「跪いてるぞ、あいつ……」
場の端、かつては戦場に立った老騎士が、剣を抜くことすらできずに、
無意識のまま、膝をついていた。
その男は、誰の命令も受けず、ただまっすぐに進んだ。
王女のもとへ。
「……来るのが、遅くなってすまない。アリシア」
まるで、すでに約束されていたような声色で、
彼は王女の名を口にした。
「なっ……!?」
「知っているのか? 姫様の名を……あの魔王が……」
次の瞬間、ゼノ=グラナートが吠える。
激情に呑まれ、前へと踏み出し──
「ッ、止め──っ」
制止も間に合わず。
魔王の指が、ほんの少し動いた。
バンッ!!
音もなく、何かが炸裂する。
衝撃でゼノは吹き飛ばされ、柱に叩きつけられた。
「ぐっ……ッ!!」
「おい、死んだか……!?」
「……いや、生きてる。だが……あの目……」
痛みよりも、執着と狂気の光を宿した目。
誰も、見たことのないゼノの顔だった。
次に前に出たのは、王太子・エドワルド殿下だった。
威厳ある銀の軍装、手にかけた剣。だが──
「……足が……震えて……いる……?」
「嘘だろ……殿下が……怯えてる……?」
否。
怯えているのではない。
“理解してしまった”のだ。
この場を支配する“それ”の本質を。
「この場において、武力をもって姫に手を出すなど……」
「──違うな」
魔王は、静かに遮った。
「“宝”ではない。“人”だ」
まるで、この世界の価値観そのものを否定するような響きだった。
「……あのとき、確かに見えたんだ」
「なにが?」
「姫様の表情が……揺れた。仮面が、割れたんだ」
王女の護衛、セイルが立ちふさがる。
だが、それすらも──間に合わない。
魔王は、ただまっすぐに姫の元へ歩いて、そして、手を差し出した。
「アリシア」
その声に、答えるように。
王女が、小さく、震えるように応じた。
「……はい?」
世界の色が、変わった気がした。
次の瞬間。
「行くぞ、アリシア」
その手に抱かれた姫は、宙を舞う。
重力さえ、魔力に飲まれた。
「やめろッ!!」
「戻せ! 姫様は、王家の……!」
「だから──連れていくんだ」
マントが舞い、空間が裂ける。
黒の渦がすべてを飲み込む。
「……見たか?」
「……ああ」
「誰も止められなかった。いや──」
「“止めてはならない”とすら、思ってしまった」
それが、あの夜、薔薇の間に現れた“魔王”だった。
誰の許可も求めず、誰にも許されず、
それでも、“誰よりも自然に”そこに立っていた。
……そして、彼女を、攫っていった。
このSSは、『拐われたお姫様ですが、勇者ではなく魔王様を好きになりました』の第5話『お姫様、攫われました』の裏側を描いたものです。
「薔薇の間」に現れた魔王様──
その時、警備隊は何を見たのか。
本編で描かれなかった視点からの“答え合わせ”を、お楽しみください。
※本編では明記していませんが、このSSでは舞台を「薔薇の間」と仮定しています。