お前が微笑んでくれさえすれば、それでいい──王太子の沈黙は、今日も続く
「アリシアは……今日も、よく笑っていたな」
執務机に積まれた文書の束に視線を落としながら、ふと、呟く。
「……まったく、あれほど無理を重ねる娘も珍しい」
それでも笑うのだから、あの子はえらい。
誰よりも“王女”としての役割を理解している。
誰よりも、それに苦しんでいる。
──だからこそ。
わたしの手の届く場所に、置いておかねばならない。
書簡に署名を終え、椅子を引いた。
そろそろ、あの子の予定を確かめておく頃合いだ。
部屋を出ると、廊下には文官が控えていた。
アリシアの明日の予定を確認するための者だろう。
「──私が行こう。あの子には、直接伝えた方がよく通る」
文官が目を瞬かせたのが分かった。
だが異議を唱えることなく、深々と頭を下げる。
「畏まりました、殿下」
扉をノックすると、予想通り、中からセリナの声が返ってきた。
「──アリシア、少し話がしたい」
「……また、ですの?」
ふくれっ面の声が、微かに聞こえてきて、思わず笑みが浮かぶ。
扉が開き、セリナがすっと下がる。
その背後で、アリシアはやや不満げな表情を見せていた。
「お兄様。もう、勝手に入ってこないでくださいます?」
「勝手じゃない。ノックはしただろう?」
「それは、形式的というのです」
「王女に形式を教えられるとは思わなかったな」
わざとらしく肩をすくめてみせると、アリシアはますます不機嫌そうに眉をひそめた。
可愛い。
そう思う自分に、少しだけ自己嫌悪する。
だが──それもまた、兄としての役割だと、自分に言い聞かせる。
「……ところで、アリシア。婚約の件だが」
「はい?」
「気にするな。お前がどう思おうと、それはただの形だ」
「……形、ですの?」
「そうだ」
彼女が少し黙る。セリナが紅茶を置き、そっと下がる。
香るのは──花の香。今日もいい調合だ。
カップを手に取る。アリシアはまだ、黙ったまま。
少しだけ、瞳の奥に戸惑いがにじんでいる。
そう、それでいい。
お前が、少しでも不安を覚えてくれれば──
私の言葉が、確かに届いているという証になる。
「お前がここにいてくれれば、それでいいんだ」
「……どうして、そんなことを?」
「わかるだろう? 私には、お前以外に必要なものなどない」
アリシアの指が、震えた。
けれど、口元には──笑みがあった。
誰に見せても非の打ち所のない、“王女の微笑”。
けれど、私は知っている。
その奥にある、ほんのかすかな拒絶。
それさえ、たまらなく愛しい。
「……お兄様、そのお言葉、お父様の前でもぜひお伝えくださいませ」
「ふ。もちろんだとも」
カップを置く。花の香りが、揺れる。
「その代わり、お前も──ちゃんとここにいるんだろう?」
「……さて。どうでしょう?」
アリシアがわずかに微笑んだ。
だがその声には、柔らかな棘が混じっていた。
──いい。
その棘すらも、愛しく思えるうちは、まだ大丈夫だ。
彼女がこの部屋にいる限り。
誰にも、手渡すつもりはない。
私の可愛い、妹。
アリシア。
「……お前が微笑んでくれさえすれば、それでいい」
それが、どれほど歪んだ想いであっても──
そう信じていられるうちは、まだ。
私は、王太子として、そして兄として、
正しくいられるのだから。