人外
やっていられない。
田端は車に乗り込んだ。まとわりつく臭気が薄らいできて何年になるか分からない。エンジンをかける。残暑の中、田端を待っていた車のエアコンは、熱風しか吐き出さない。
貸した金を返さなかった。だから殺した。
男はそう言った。
殺された男の親族から捜索願が出された。先ず先に浮かんだ男に事情を聞きに行くと部屋から腐臭がする。部屋に上がり込むと、押入れのビニール袋から人のような物が出てきた。行方不明の男だった。
応援で臨場した、よくある事件。専従の事件は手詰まりだった。それが更に濁った頭を掻きまわす。
田端浩一は大学を卒業後、警察官になった。代々、警察官の血筋だ。交番勤務をしているうちに、どうせならと刑事になる事にした。持ち前の正義感と、上司に恵まれ意外にも早くに刑事部へ転属となった。
それからは飛ぶように時間が過ぎていった。
配属先で強盗を扱う事になったが、人間の負の側面をありありと見せつけられた。
人は、はした金で人を殺す。自分の満足が満足ならば、人生を踏みにじる事を何も思わない。生活苦で追い詰められると何でもする。些細な事で憎しみの火種を宿し、それを長い年月の間に大きくして、ある日突然、人を殺める。
親父は、よく正気を保っていられる。たまに実家に帰って親父の顔を見ると、どんな心境で家に帰って飯を食って寝ていたのか分からない。
三十も半ば。親から何度も結婚の話をされる。自身でも家庭を持たなければと思うが、妻をめとって子を生し、親父の様に家に帰って普通に生活できるか。強引な見合いがあったが、呼び出しで席に着くことは無かった。それ以来、結婚の事を言う者はいなくなった。それから仕事だけの日々が続く。
犯人を挙げる。田端の頭の中で渦巻く言葉。
単純に仕事が出来ていないという焦り。いつの間にか、その衝動だけが田端を捜査に駆り立てる。「人を殺す」。それによく似た衝動は、警察官としての矜持を乗り越えつつある。衝動は黒く頭の中で澱みを作り、それが頭を濁らせ焦りを生む。
正気が削れてゆく。
事件が起こるたびに浅くなる眠りは、田端の中の黒い澱みを深くする。
ふと、田端は松尾と言う老刑事の事を思い出す。刑事部に配属されたときに教育係だった男。
松尾はノンキャリから上がってきた、いわゆる「叩き上げ」の刑事だ。田端が刑事になった頃は、すでに防犯カメラ映像解析、DNA鑑定などの捜査手法が出てき始めていた。松尾は昔ながらのやり方で、靴の裏をすり減らし、容疑者の子供のころを聞いてまわり、人格を洗いだす。そして、取り調べでは相手の心の中まで覗き込む。そんな捜査手法を用いる刑事は結果を残してきた。松尾は「濁り」とも「焦り」とも無縁だった。そんな松尾だが、癌が見つかり、あっけなく死んだ。
田端はいまだに覚えている。ある暑い日の事を。
その日、松尾から病室に呼び出された。田端は署を出ると松尾の病室へ行った。まだ残暑の厳しい季節。西日の差し込む病室。吹き出す汗にネクタイを緩めるが、扇風機は熱気をかき回しているだけだ。
何の用かと聞こうとした。松尾がベッドに横たわる向こう側に「何か」がいる。
西日を受けて壁に伸びる影の中。見開かれた目がこちらを見ている。それは田端の目から体に入り込み、体を動かせなくしている。松尾が「もういいぞ」と言うと、それは影ごと消えた。田端は何が起こったか分からなかった。
「あいつとは、俺が刑事になった頃からの付き合いだ。人外と名乗っている。他にもいるそうだ。そいつらは人の中に紛れている。俺はあいつの力を借りた。あいつが欲しがるものと引き換えに。」
松尾は昔、ある誘拐事件に関わり、無傷で人質を解放するという功績を残している。それからは、地味だが幾つもの事件を、殆ど独力で解決してきた。
田端は当時の刑事部長の話を思いだす。捜査に行き詰まると、どこからか糸口をつかんでくる。それは松尾のやり方では手に入らない。正直に言って気味が悪かったと。
「長くこの仕事に就くなら、人外と言う存在と出会うかもしれない。だが、俺をみろ。」
松尾の目は落ちくぼみ、肌は西日が沁み込んでも青白い。痩せた腕に浮き出た薄い血管は、管を引き込む以外に用をなさない。松尾はかすれる声で「帰れ」と言うと、田端を病室から追い出した。松尾が死んだのは、それから一か月後の事だ。
松尾の言う”あいつ”なら知っているはず。濁った頭と焦りは、熱さで朦朧とする田端を松尾の墓へ向かわせた。
空気は熱せられたアスファルトで歪み、傾く太陽が容赦なく肌を焼き汗がにじみ出る。噴き出る汗をぬぐい、貼りつくワイシャツの袖を捲り、墓地への階段を登る。一歩を踏み出す度に松尾の声が聞こえるが、田端には雑音でしかなかった。
松尾の墓の前に立つ。見下ろすと、一輪のリンドウが置いてある。それは熱気にさらされ萎れている。
誰か来たのか。聞こうと見回すと、初老の管理人を見つけた。彼のももとに行き、誰か来なかったと聞くと、知らないと答えた。毎日、人の出入りはある。誰がどの墓参りに来たのか、全ては見ていないそうだ。
誰かが気まぐれに墓に来たのかもしれない。管理人に礼を言って立ち去ろうとしたとき、呼び止められた。
「たまにね、一輪だけの花が供えられているときがあるんですよ。思うんです。それは何かが、人がすることを真似て供えたんじゃないかと。」
管理人は、老人の戯言と言って、掃き掃除を始めた。
田端の見た病室の影。松尾が言った人外という言葉。供えられた一輪の萎れたリンドウ。田端は硬く閉じると松尾の墓に手を合わせた。
何かがいる。
朧によみがえる感覚に、田端は立ち上がり振り返る。しかし、誰もいない。視界を赤く染める夕日。足元に木の影が伸びている。地面に落ちるそれを見ると、あの目が田端を見つめている。
影の中の”あいつ”は、笑うかのように目を細めていた。