第九章 大切な人
遠い記憶の底、深い考え事から、現実に意識が引き戻された。そうさせたのは、騒がしくなった大通りの歓声。一瞬、追っ手が来たのかと身を怖がらせたけれど、すぐにそうではないとわかった。通りを行く人が立ち止まり何やら一箇所に集まって、手を叩いたり笑い声を上げている。旅芸人でも来ているのだろう。何気なしに目を向けた人だかりの中心には、とんがり帽の男の姿があった。階段の上部に座っているので顔までは何とか見えるが、周りに人が多いせいで、全身は見えない。しかしその白塗りの顔のおかげで彼がピエロであるとわかる。なにやら瓶をまわしているようだった。…瓶。♥Kも、瓶まわしが上手かった。でも、目の前の男はそれ以上だった。まわしていた瓶の数は十本ほどで、その高さは尋常でない。しかもピエロはまだ瓶を追加しようとしているようであった。集中して瓶を見つめる。その瞳が、九年前に出会った男の子に似ている気がしたのは、私の思い過ごしだろうか。
「ただいま十本。これがピエロの最大記録。でも今夜お客様のご期待にお応えし、更に二本、合計十二本に挑戦いたします!」
どこからかよく響く女の人の声がした。我も忘れて、ピエロに見入る。瓶が一本加えられると、それまで安定して綺麗だった宙に描かれた円が、一瞬歪んだ。かなりぎりぎりの挑戦をしていることが見て取れる。しばらく十一本の状態で続け、安定させている。あと一本。しかしその一本が境だ。重力に負けるか、彼の手の中で舞い続けるか。真剣なピエロの表情が、あの日八十五の団体名を覚えようとしていた♥Kと重なって見えた。私は、階段から駆け出し、観客を掻き分けてピエロの元へ進んだ。押してしまった観客に怒声を浴びせられても、止まることをしなかった。自分でも、何故こんなことをしているのかわからない。こんなに人のいるところにいれば、追っ手に見つかってしまう可能性があがる。この観客の中にだって、追っ手がまぎれているかもしれない。隠れなきゃ。頭ではそう思っているのに、体は勝手に進み続ける。私が最前列に出ると、ピエロが最後の瓶に手を掛けたのがほぼ同時だった。さっきよりも大きく円が歪む。
「崩れるわっ」
「離れろ」
口々に叫び、ピエロから距離をとろうとする人々。それでも私は、後退ることをしなかった。信じていた。彼ならまわし続けることができると。
「がんばれ!」
私の声で辺りが静まり返った。ピエロと一瞬目が合った。しかしすぐに目を離し、瓶に集中する。
「がんばって!」
もう一度叫ぶと、今度は周りの観客たちもピエロに声をかけ始めた。
「気い張れ」
「ピエロさんならできるよ」
「手もっと早く動かせ」
みんながひとつになっていた。みんながピエロを応援していた。そして、
「お、持ち直したぞ!」
瓶たちは、再び美しい円を描きだした。
瓶を全て机に置くと、観客の一人がピエロの肩を叩いた。
「まったく、はらはらさせやがって」
満面の笑みを浮かべた人々が、労いの言葉をかけていく。しかしピエロはその声に応えず、ぺこりとお辞儀をするのみだ。
「なんだよぅ。ピエロはしゃべんないって知ってるけどよ、一言くらい話しても罰はあたらんぜ」
パン屋のエプロンをしたおじさんが冗談めかして言う。みんなおじさんに同調した。
「すみません。こいつはしゃべらないのではなく、しゃべれないんですよ」
シルクハットをかぶった男が、口を挟む。どうやらこの一座の責任者らしい。私は自分の鼓動が早まっていくのを感じた。…しゃべれない。まさか、ピエロは。ピエロに視線を移すと、彼は私のことを見つめていた。ああ、この瞳には前にも見つめられたことがある。
「あなたは、ハートのキングですか」
ピエロはこぼれる涙を隠すようにうなずいた。
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