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Pierrot  作者: 桜田 優鈴
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第七章  あの日の記憶

 リルソフィア。それが、私が産まれ十二歳まで育った街だ。ストナレア国は貧富の差が激しい国らしかったけれど、リルソフィアは他国との貿易で常に栄えており、街の中だけで見ればみんな恵まれた生活をしていたといえる。しかもリルソフィアの街は高い防壁で囲まれ、検問が王宮並みに厳しかったから、町民と商人以外を見かけることはとても稀だった。だから私たちリルソフィアに住む子供は、学校の社会の時間に「この国には貧しい人がたくさんいるのです」と言われても、ピンとこなかった。リルソフィアの子供たちは、危険だという理由で子供だけで街から出ることを禁じられており、街から出たことのある子は少なくとも私の周りにはいなかった。危険というものを言葉としてしか知らなかった私たちは、いつかこの街から出てみたいと思うようになっていた。

「え、街の外にでるの!」

 そろそろ冬支度を始める時期の夕食に、母が私を誘った。

「リベルまで連れていくことはないんじゃないか。危険だと思うぞ」

 父が母を咎める。しかし、せっかく街から出られる機会を逃したくない。学校のみんなに自慢したいという気持ちもあった。

「私行きたい!お母さん、外で何するの」

「お母さんの弟、リベルから見たらおじさんにあたる人がね、隣町に越してくることになったのよ。だから、新居に必要な買い物を手伝ってあげようと思って。で、考えてみたらリベルに一度も会わせたことなかったじゃない。だから一緒に行きたいの」

 楽しそうに語る母に、父も許す気になったのだろう。私が行きたいのなら、ついて行って良いと言ってくれた。

 こうして母と二人で街を出た私は、検問をくぐったとたんに愕然とすることになった。まず目に入ったのは、入門審査を待つ人の長蛇の列。そして、街を囲む外壁にもたれかかる人々が門のすぐ脇からずらりと続き、街を覆っていた。どこまでも続く、生と死の間をさまよっているかのような人たち。私は母の手を握り締めて歩き続けながら、この門は本当に生きるものと死ぬものの境界なのかもしれないと思った。そのときにはもう、街の外に来たという歓喜と興奮は私の中からすっかり失われていた。

 ようやく、おじさんとの待ち合わせ場所にしている馬貸家の前に着いた。そこには馬を待つ人のためのベンチがあり、上物のスーツに身を包んだ三十代くらいの男が一人、座っていた。

「お隣、よろしいですか」

 母が問うと、男は笑顔でうなずいた。母に即されるがまま腰掛けたベンチは、街の公園のそれとはまったく異なり、今にも崩れそうな木製だった。母と男は気が合ったらしく、会話に花を咲かせた。私も気さくなこの男が気に入った。話をしている間に馬が二頭帰ってきて、お客が五人ほど出発したが、おじさんが来ることはなかった。

「おかしいわね。場所を間違えているのかしら。まだ引っ越してきたばかりだから、どこかで迷っているのかも」

 母が不安そうにつぶやく。

「じゃあ、そこらを探してきてはどうですか。リベルちゃんは、私が見ておきますよ」

 男が提案した。

「お言葉に甘えさせて頂いていいですか。リベル、ここから離れちゃだめよ」

「うん。いってらっしゃい」

 それが、母と交わした最後の言葉だった。母が見えなくなってしばらくすると、男がピュっと高く鋭い口笛を吹いた。とたんに、馬小屋の影から質素な馬車が出できて、私たちの前に止まった。中から大柄な男が二人飛び降り、腰を浮かせた私の両腕をつかんだ。それは、本当に一瞬の出来事だった。

「お母さん!」

 叫ぼうとした私の口は大男の手によってふさがれ、届くことはない。

「ロゼットの女なんてなかなか手に入るもんじゃねぇ。傷ひとつつけんなよ」

 さっきまで親切だったはずの男が、大男に命ずる。何故…。

「ったく、最近のリルソフィア人様は人を疑うってことをしてくれなくていい。それともロゼットの血筋かね。さっきのおやじだって、今頃反対方向に向かってひたすら馬小屋求めて歩いているんだろうよ」

 男の言うおやじが、私のおじさんを指すのだとわかったとき、ようやく嵌められたのだと悟った。この男は始めから私を狙っていたのだ。抵抗するすべもなく馬車に運び込まれ、何かの気体を吹き付けられると、一気に意識が遠ざかった。遠のく意識の中で最後に頭に浮かんだのは、もうリルソフィアの地を踏むことはないだろうということだった。


 酷い頭痛と共に目を覚ますと、そこは朽ちた木の匂いの充満する場所だった。靄がかかった思考をなんとか稼動させ、自分の置かれている状況を理解しようと首をめぐらせた。視界に入るものを順に観察する。薄暗い室内で認識できたものは僅か。大樽、今にも抜けそうな床、瓶や何かがのった小さな机、そしてボロ布の塊が六つ。左の足首に違和感を覚え、焦る気持ちを必死でこらえ自分自身に目を凝らす。手で触れると、ささくれ立った低質な太い紐が結ばれており、どこかに繋がれているようであった。服は着た記憶の無いボロで、肌が擦れる度にざらざらとして痛かった。身につけている布切れをどこかで見たことがあるような気がして、一瞬考えてから顔を上げた。この部屋にある不気味な六つのボロの山。そのひとつひとつが微妙に動いている。生命を感じた。私と同じ目にあった子が六人もいるのか!息を飲んだのと同時に、ぱっと急激に周囲が照らされた。強すぎる光に耐え切れずに思わず瞑った目を少しずつ開いたが、暗さに慣れていた目が眩んで、何も見えない。それでもしばらくすると先ほどまで見えなかったこの小部屋の全体が明らかになってきた。光が点く前は存在しなかったはずの三人の男が部屋の入り口に立っている。その顔にはどれも覚えがあり、私を無理やり連れ去った連中だと思い出した。この突然現れた光の源は天井の電球だと知る。光の下で見るボロたちはやはり人間だった。しかし、六人ではなく、ひとつはぴったりと寄り添って眠る五歳くらいの男の子と女の子だった。残りは一塊が一人で、私も含め女子と男子がちょうど四人ずつ、八人の子供が皆息を潜め、お互いを探り合っていた。

「チビ以外は起きたか。ショータイムは深夜だ。まだ時間はあるからな。せいぜい同じ境遇同士、悲しみでも分かち合っておくんだな」

 下品な笑いと共に、紳士ぶっていた男が部屋を出る。ショータイム、とは何。

「御頭、間違ってる。ピンクいのは俺たちで連れ去ってきたんだから、同じ境遇って言えないよね」

「細かいこというな。それより、早くこいつらに名前付けないと、面倒だぞ。ピンク以外はこれといった特徴ないし」

 大男二人の会話を聞いた子供たちは、私のほうをちらちらと窺ってくる。このときから、大好きだったこの髪を嫌いになった。

「私はシェリーシカよ」

 凛とした綺麗な声が突然聞こえた。声のした方を見ると、少し引きつった笑顔をうかべた私よりも年上な女の子がいた。汚れてしまいせっかくの長い髪も乱れてはいるが、美しい顔立ちをしている。

「そんな長ったらしい名前、憶えてらんねぇよ。兄貴、ちょうど男女四四だしさ、これ使えるだろ」

 手に取ったのは、テーブルの上のトランプ。

「男にK、女にQで良いよな」

 言うなり、テープでボロにカードを貼り付けていく。

「お前らの名前はそれだからな。自分の名前、しっかり覚えとけよ」

 男二人も部屋から消えると、しばらく無音の空間が続いた。それを破ったのは、♣KとQ―――一番年少の二人だ。

「んー」

 目を覚ました♣Kが周りの様子に気づき、慌てて隣の女の子を起こす。

「ムナ、起きて起きて。おうちじゃないよ」

「お母さんはどこ、ジェムシー」

 泣き出す寸前の二人は、女の子がムナ、男の子がジェムシーという名前らしい。

「お前らは売られたんだよ」

 そっけなく言い放ったのは、♦K―――私より年上で短髪の男の子。彼の発言は、♣KQだけでなく、私の心も抉った。そんな心無い冗談を言ったら、♣たちはきっと更に泣いてしまう、そう思ったのに。

「そっか。ムナは、ジェムシーと売られたんだった」

 二人は涙をごしごしと拭った。

「売られるって、どういうこと…?」

 私の問いに、怪訝な目をする子どもたち一同。そこで大男の言葉を思い出す。私以外は彼らに連れ去られたわけでないのにここにいる。私以外は同じ身の上だと。

「僕らは金と引き換えになったんだよ。だけど、哀れだと同情するのは間違っている。君は血色も良いからきっといい暮らしをしている側の人間だったのだろうけれど、僕はそうじゃない。僕の父親はね、アルコール中毒による精神異常だったんだよ。そんな家にいるより、売られたほうが百倍マシだって、本心から思っているからね」

 童顔で可愛く見える♠Kだが、言っていることはどこまでも残酷だ。しかし、彼がそんな身の上話をしてくれたのは私に現実を―――人身売買がごく普通のこととして扱われていることを―――教えてくれるためだ。

「スペードのキングのおかげで、状況がわかってきた。ありがとう」

 ♠Kは、きょとんとした顔をした。そして、自分の肩の辺りに貼られているカードを見て、納得した。

「スペードのキングって、僕のことか。僕の名前はトラーだよ」

「まったく、自分を連れ去った相手がつけた名前で呼ぶなんて、どうかしてるわ。これだからお人よしで金持ちのお嬢様は嫌なのよ」

 鋭い声の主は、♦Qを付けられたシェリーシカだ。

「お前、さっき人売りに媚び売ってたろうが。俺はそういう奴のほうがよっぽど嫌だね」

 ♦Kが口を挟む。それに対して♦Qは不敵な笑みを浮かべてみせた。

「私はね、あんたたちとは違うの。売られたんじゃない。売ったのよ、自分自身を。一番高値を付けさせてやるわ」

「馬鹿じゃねーの。自分を売ったとか、絶対いかれてる。それに、今回の最高値は確実にハートのクイーンだろう」

 ♥Qは私だ。何故ここで私が出てくるのかわからない。

「何でそんな女が一番なのよ。確かに私はチチカの下人だったけど、ここに来る前の地位なんて、客には関係ないわ」

「自分を売るような馬鹿は知らないかもしれないけどな、その女の一族は、」

「止めてください!」

 突然叫んだのは♠Q―――おさげ髪の女の子。よほど勇気が要ったのか、声が裏返ってしまっていた。

「何で喧嘩なんかするんですか。私たち、今夜限りですけど同じ屋根の下にいるんです。仲良くしましょう?」

 年長者二人は呆れたように脱力する。

「仲良くなんて、ふざけたこと言わないで。私たちは敵よ」

 ♦Qが容赦なく言い放つ。

「ダイヤのクイーンに同感。ここでは客の競りで俺たちの値段が決まる。客が買いたいと思わないと、低価格で売り払われることになる。逆にみんなが欲しければ価格は吊り上がる。より金を手に入れるには、高価格を提示してくれる人物に選ばれなくちゃいけない。そんな奴、多くはいない。だからより良い買い手を取り合う敵だ」

 ♦Kが口を閉じると、しばらく沈黙が続いた。

 年上二人の意見は私たちに突き刺さる。競られる自分。競る大人たち。そんな構図、今まで考えたこともなかった。リルソフィアの中は商業も盛んだったけれど、人身売買なんて聞いたことがなかった。一歩外に出るだけで、こんなにも世界が違うものなのか。自分の中に構築されている常識というものが悉く通用しない。街から出たときの違和感。見慣れてしまっていた高すぎる防壁は、外から見ると異質さを強く感じた。外壁に寄りかかるように座っていた、生と死の狭間を彷徨う人々。あの人たちは何故あんなところにいたのだろう。街の中には宿も医療施設もたくさんあるのに。そこまで考えて、はっとした。防壁に囲まれた街の中で、私を含めた町民は何の不便も無く暮らしていた。その裏で、知らぬ間に街の外の人たちを犠牲にしてきたのではないだろうか。知らぬ間、というのは違うかもしれない。街から出て、外の悲惨な光景を目の当たりにしても、お母さんは動じていなかった。お母さんもお父さんも、そして街の大人たちのほとんどが、街の外のあの悲惨な姿を一度は見たことがあったはずだ。知っていてなお、街の中での快適な生活に異議を唱える者はいなかった。私はどうだ?連れ去られること無く、おじさんに会うことができ、再び街の中に入って、どうしたろう。友達に街の外に出たことを自慢した?出るときの検問はあっという間だったけれど、入るほうは行列ができていた。そのわりに中に入ってくる人は少数。仮に私がここから逃げ延びて、一人でリルソフィアにたどり着くことができたとしても、もう中には入れないかもしれない。いや、入れない確率のほうが高いと思う。あの街は、犠牲と偽りと差別でできた街なのだ。外からでないと気づけない、内の歪み。なんて醜い人間だったのだろう。中に入れたところで、リルソフィアの異常さに気づいてしまった今、もうあの街で以前のように無知の笠を着て暮らすことはできない。

 考えることが辛くなり、顔をあげると一人の男の子と目が合った。まだ一言もしゃべっていない、影のような人―――♥K。私と同じマークを与えられし人。私から視線を外そうとはしない。その瞳の奥に底なしの闇があるように感じてしまう。それでも私は目を逸らさなかった。今逸らしてしまったら、それは街の外に目を逸らし続けた街の大人たちと同じになってしまう気がしていた。しばらくそうしていると、一切動くことの無かった♥Kが、私のすぐ隣に移動した。私が驚いた顔をしていたのだろう。♥Kはぺこりと頭を下げると、ひたと私を見つめ、のどに右手をあて、左手は口の前で開閉させる。最後に首を横に振って否定の意を示した。

「もしかして、しゃべれないの?」

 私の問いに、こくりとうなずく。♥Kの手が、そっと私の手に合わさった。

「温かいね」

 嬉しそうに首肯する。この場所に来て初めて誰かの笑顔を見た。私の手に、指で何かを書く。

『いきてる』

 その文字列の変換が”生きてる“であるとわかったとき、悲しみと切なさと苦しさといろいろな感情が入り混じって、何故か涙が出そうになった。

「うん。生きてる」

 生きている人間は温かい。♥Kは今こうして生きていることの喜びを、感じることができる。私はどうだろう。リルソフィアにいたとき、恵まれた境遇を幸せと感じることがあったろうか。感謝することがあったろうか。生きていることを当たり前と思っていなかっただろうか。

「人の体温って、こんなに心地よかったんだね…」

 今はただ、隣に寄り添ってくれる人がいるだけで幸せと思える。

「ありがとう」

 ♥Kは優しく笑い、口を大きく動かした。“あ・り・が・と・う”。たったこれだけで満たされる。こんな状況でさえ、こんなに優しい気持ちになれる。そのことを教えてくれた人。

 たった一夜限りでも、同じ運命にある八人。全員が幸せになって欲しい。そう思ってしまうのは、甘い考えだろうか。そうかもしれない。でも、私は信じてみたい。売り物として在る私たちでも、誰よりも大きな幸せを掴むことができると。繋いだ手にこめる力を一瞬強めた。それに気づいた♥Kと視線が交差する。彼は、私の決意を感じたようで、大きくうなずいてくれた。

「みんな、聞いて欲しいの」

 一斉に、十四の目が私を捉える。

「私は今まで、何の不自由もない日々を送ってきた」

「何。自慢したいわけ」

 ♦Qに睨みつけられる。慌てて首を横に振った。

「私たちリルソフィアの子供は、街から外に出たことがなかった。街の中しか知らずに育ってきた。知ろうとすることをしなかった。だけど、私はこの目で街の外を見たの。生と死の狭間にいながら、それでも起き上がる人々を」

 小さな声で♠Kが発言する。

「君が見たのは、この国のほんの一部だろう。もっと悲惨だよ、ストナレア国の実態は」

 その言葉は、ぐさりと私の胸を刺した。やはり、私なんかが言えることではないのだ。俯きかけたとき、手を痛いほどに握られた。♥Kの瞳には光があった。その光が、私を照らす。目が覚めた。

「確かに私は何も知らない。無知な子供。それでも、どんなに深い闇の中でも、幸せはあると思うの」

 ♠Qが手を上げる。

「あの、ハートのクイーンの幸せって何ですか」

 リルソフィアでぬくぬくと大人になるのは、幸せとは違う気がした。私はもう、あの日々を受け入れられない。じゃあ、私の一番の幸せって、何だろう。これからみんな売られてばらばらになる。生きていられないかもしれない。生きていられればいい。でも、更に望むことが許されるなら。

「もう一度、八人とめぐり合うこと」

 一拍あけて、♦Kが鼻を鳴らした。

「馬鹿馬鹿しい。そんなこと、できるわけ…」

 私の真剣な眼差しに、♦Kが言葉を失くした。

「本気で言ってるのか」

「はい。…確かに、すぐには無理だと思う。でもいつか自由を手にして、私たちは再会する」

「僕はできると思うよ。だって、ムナとは生まれる前からずっと、離れずにいられてるんだから。八人くらい、一緒にいられるよ」

 ♣Kに被せるように、♣Qも声をあげる。

「ムナはね、ずっとずっと、ジェムシーと一緒なの。お母さんのお腹の中にいるときから、離れたことはないの」

 二人の無邪気な声に背中を押された。

「数年後もう一度出会ったときに、八人全員が自分は幸せだって、言えること。それが私の望みであり、夢」

 言い切ると、胸の奥にあったイガイガがすっと消える感覚がした。

「私、待っています。再会の日を」

 髪を揺らして♠Qが笑った。

「僕たちは二人でいれば幸せだから、いつでも会いに来ていいよ」

 ♣KQも満面の笑みで答える。

「幸せなんてよくわからないけど、努力しとく」

 首元のあざを隠しながら、小さく微笑む♠K。

 こんな状況でも、笑うことはできる。大丈夫、私たちなら幸せになれる。

「そんなの、ただの綺麗ごとよ」

 流れを断ち切るように、♦Qがそっけなく言い返す。

「夢物語だね。現実味がない」

 ♦Kもきっぱりと否定する。傷つきかけた私の隣で、影が動いた。驚き見ると、怒りを露わにした♥Kが、口をパクつかせている。言い返してくれようとしたのだろう。

「ありがとう」

 肩に手を置き♥Kを止める。味方になってくれたことが単純に嬉しかった。

「今は夢物語だと言ってもらって結構です。でも、数年後、私はあなたたちに会いに行く。そのときまでに、幸せになっていて」

 がたん、とドアが開き、大男たちが入ってきた。私たちは息を潜め、しかし目だけは光を失うことはない。

「ショータイムの幕開けだ。移動しろ」

 全員の足首から伸びていた紐が、つながれていた柱からほどかれ、大男が引っ張っていく。逃げる隙はないようだ。連れて行かれた薄暗い部屋に差し込む光の先には学校の体育館にあるようなステージがあり、座席にはたくさんの人が入っていた。気づけば移動先の部屋の柱に再び紐がつながれていた。

「番号の確認をさせていただきます」

 ステージの上にいるのは、紳士ぶっていた男。また紳士のふりをしているのが見える。

「一番、コルダ劇団様。二番、チュラナ座様。三番…」

 いよいよ売られるとそわそわとする子供たちの中で、♥Kだけが一点を見つめて耳に手を当てている。♥Kは、アナウンスを聞き漏らさないようにしているようだった。そこではっとする。彼は番号を覚えようとしているのだ。覚えて、誰がどこに買われたのか把握できるようにするのが目的。私も意識を耳に集中する。

「三十六番、ミナル研究所様。三十七番、ワノデ商社様」

 まだまだ続く。覚えにくい名ばかりで、既にごちゃごちゃになってしまっている。隣を窺うと、真剣な顔の♥Kがいた。

「八十三番、ワレチュ楽団様。八十四番、コナ様。八十五番、デルナベ一座様。以上でございます」

 紳士のふりが礼をして、舞台袖に帰ってくる。

「覚えられた?」

 小声で♥Kに聞くと、しっかりうなずかれた。そうとうな記憶力の持ち主らしい。

「お前からだ。さっさと立て」

 最初にステージに立ったのは、♠Q。残った七人が固唾を呑んで見守る。両脇を大男に掴まれ、司会は紳士かぶれが行う。

「何か特技は」

 緊張のあまり言葉を失っている♠Qを大男がどつく。

「早く答えろ」

 しかし、頭が真っ白になっているらしい♠Qは口をわなつかせるのみだ。イラつく大男は客に見えないようにしながらも、背中を殴る。その痛々しさに子供たちが目を逸らしかけた、そのとき。

「一千チルド」

「五十七番様。ありがとうございます」

 響いたのは太い男の声がひとつ。それ以外の客は声をあげなかった。

「それでは、五十七番様の落札とさせていただます」

 ♠Qはそのまま五十七番の客に引き渡される。

「あーあ。一千チルドなんて安金で売られちゃって」

 その声は舞台から顔を出した大男にも聞こえたらしい。

「うるさいぞダイヤのキング。よし、次はお前だ」

 光の下へ連れて行かれてしまう。

「特技は」

「体力。重いものでも運べる。病気になんてほとんどなったことない」

 しっかりと客を見据えている。

「一千五百」

「一千六百」

「二千」

「二千二百」

 しばらくの沈黙。

「では、六十二番様の二千二百チルドでよろしいですか」

 さっきの倍以上の値で、♦Kは売られていった。

 次に舞台に立ったのは♠K。

「特技ではないかもしれませんが、礼儀作法などは身についています」

 競が始まる。しかし、最初の提示額が破格だった。

「四千」

 声をあげようとしていた客たちの息が、ため息に変わる。

「二十三番様の四千チルドで、落札」

 大男が次の商品として♣Qに手をかける。連れて行こうとするのを、♣Kが必死に妨害した。

「離れろガキ」

「やだ。ムナと僕はずっと一緒なの!」

 いくら引き離そうとしてもしがみ付いて離れない。

「いいんじゃないか、一緒にステージに上げても」

「御頭」

 大男が突然現れた紳士かぶれに慄く。

「双子なんてそうそういないし、価値上がると思うぜ」

「御頭に感謝しろよ」

 ♣Kの紐も解かれ、♣KQがそろってステージに向かう。

「この二人は双子の兄と妹です」

 アナウンスが終わると、ぽつぽつと数字が聞こえてくる。

「二千三百」

「二千五百」

「では、三十六番様の二千六百チルドで」

 二人分にしては少なめな値段で、♣KQは一緒に買われていった。

 残りは私、♥K、♦Qの三人になってしまう。次は誰が。

「ハートのキング、立て。」

 大男が♥Kの腕を引っ張った。つないでいた手が離れる。

「待って」

 私の叫びは無視され、どんどん離されてしまう。伸ばした手はあと少しのところで♥Kの指先をかすめる。彼の口が必死に何かを訴える。“な・ま・え”。慌てて息を吸い込む。

「私の名前は」

 突然、何者かに口を塞がれた。早く伝えなきゃ。精一杯抜け出そうとしても、口の覆いは外れない。涙で歪む視界の中で、♥Kの頬に光の線が引かれた。ライトの光を反射する雫。彼はステージの上で、空き瓶をまわしていた。彼の特技。彼はきっと、どこかの一座に買われる。それしか、知りようがない。名前さえも知らない。何で早く名乗っておかなかったのだろう。♥Kはみんなの買われた先を知っている。でも、私の買われた先を知ることはできないだろう。私が、八十五個の名前くらい、全て覚えていたなら。あるいは、♥Kの名前だけでも知りえていたなら、探すことは可能だったかもしれないのに。後ろを振り向くと、肩で息をする♦Qがいた。

「あなたが、私の口を塞いだの」

 見下すような目つきで、唇にだけ笑いをのせた彼女は悪びれずに私に言った。

「ええ、そうよ」

「何でこんなこと!」

「気に食わないのよ、あんた」

 至極当然のような口ぶり。

「あなたのせいで、ハートのキングに会える可能性が減ったじゃない!」

「名前を知らないのは、みんな一緒じゃない。それでもあんたは会いに行くんじゃなかったの」

 返す言葉が見つからなかった。私がこんなに怒りを覚えているのは、♥Kが特別だからだ。いつの間にか、私の中で♥Kの存在がこんなにも大きくなっていた。

「七十三番様。落札」

 落札。たったそれだけの言葉で、♥Kの命運は決められてしまった。

 私は一人きりで闇の中にいた。今ステージの上には♦Qがいる。

「私はお客様のご希望に応えられるわ。全力を尽くして働きます。何かご注文はおあり?」

 子供たちの前で取る態度と正反対に、綺麗で凛とした声と可愛らしい笑顔を操る。その演技力にただ息を呑むことしかできない。

「注文、何でもいいのか」

 お客の一人が質問する。

「はい。なんなりと」

「脱げ」

 即座に、別のところから声があがった。

「裸になれ」

「脱げよ」

「何でもするんだろ」

 あちこちから野次が飛びかう。あまりにも卑猥で下品な。

「わかりました」

 会場が静まり返った。

「手、離してくださる?」

 大男が慌てて押さえていた手を離す。♦Qはボロの端を握り締めた。

「おい、早くしろ」

 また客たちの野次が広がっていく。同じ女の子として、♦Qの苦しさがわかり、客に怒りがわいた。しかし、♦Qは怒ることをせず、一気にボロを引き下げた。露になった肌に、客たちがどよめく。

「三千」

「三千五百」

「四千」

 ここまでの最高記録をこえても、競は止まらない。

「四千五百」

「四千七百」

「五千」

「五千百」

 そこで音がやんだ。

「十二番様の五千百チルドで落札です」

 アナウンスが終わるなり、♦Qはボロを拾い上げた。そして包むように自分の体を抱く。大男にせかされて、ステージから降りていった。

 最後の私は、無言で大男に連れられてステージに立った。ここから見る会場は舞台袖から見るそれとは違って、品定めをするお客たちの下品な目に晒され続ける、危険な雰囲気の漂う場所だった。

「ご覧ください。ピンクの髪、エメラルドの目、白い肌。ロゼットの血を濃く受け継いだ、高貴な娘です」

 会場がざわつく。

「ロゼットは珍しい種族です。なかなかお目にかかれるものじゃありませんよ。ここで手に入れなければ、一生入手できないかもしれません」

 ざわつきが一層大きくなる。そのとき、会場の出口付近に♦Qを見つけた。目が合うと、彼女は視線をそらした。

「四千百」

 競はもう、始まっていた。

「四千五百」

「五千」

「五千三百」

 信じられなかった。あそこまでした♦Qの値段を、ロゼットだというだけで超えてしまった。その驚きは、私以上に♦Qのほうが大きかったらしい。目を大きく見開いて、私を凝視していた。

「五千四百」

「五千五百」

 まだまだ上がっていく私の値段を背に、帰り支度が終わったらしい主人に連れられ、♦Qが会場から出て行った。

「では、二十二番様の五千七百チルドで落札。本日の競はこれにてお開きとさせていただきます」

 私は中年の太った男に引き渡され、会場を後にした。外に出ると、皮肉なほどにきれいな満月が私をあざ笑っていた。

ここまでお読みいただきありがとうございます。

この作品には続きがございます。

ぜひ次のお話もお読みいただけますと幸いです。

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