第二章 温かい心
目覚めるとそこにいたのは、この家に三十年以上使え続けているらしい執事のカナンと、白衣に身を包んだの三人の医師だった。
「トラーは、どこ?」
僕は開口一番、そう言った。トラーはこの家の奴隷であり、僕のたった一人の親友だった。僕の手術が終わったら、一緒にキャッチボールをしようと約束していた。階級の違いなんて気にしたこともなく、いつもそばにいた。だから、僕が目覚めて最初に見たかったのは、トラーの顔だった。
「トラーを早く、ここへ連れてこい」
僕は執事に向かって命じた。カナンはなぜか、ひどく悲しそうな顔をした。
「トラーはシュー王子のすぐそばにおります」
ベッドに横になったまま部屋中を見てみたが、トラーの姿はどこにもなかった。
「トラー、出て来い」
体中に、いやな汗が噴出すのを感じた。最悪な想像が脳裏をよぎる。
「トラー!」
僕が呼べばどんなときでも答えてくれたはずの声はなく。
聞こえない声の代わりに、トクン、といつも近くで聞いていた鼓動が僕の耳に届いた。
今日は朝から王宮が騒がしい。使用人たちがみな、来訪者を受け入れるための準備をしているからであった。手術が終わってからというもの、すっかりふさぎこんでしまった僕、シュナロディア王子――通称シュー王子を元気付けるため、執事が最近下町で人気だという旅芸人を王宮に入れたのだ。下人に王宮の門をくぐらせるなど、通常であればありえない。そのありえないことを許可してしまうほど、僕の元気がなかったらしい。ストナレア国建国来初めてともいわれる下人の王宮訪問は、カナンの責任の元、秘密裏に、警備体制の抜かりなく行われる。
「シュー王子、旅芸人のものが入室いたします」
僕は答える気力もなく、王座で足を組みなおし、肘をついた。それを合図に正面の真紅の大扉が二つに割れる。髪を高く結った少女、しわの深い女、ひょろりとした男、大きな箱を担いだ青年…次々に入室してくる彼らに共通しているのは、皆薄汚い格好をしているということだ。これが、以前トラーが話してくれた下町の現状というやつか。トラーはよく、僕の知らない王宮の外のことを教えてくれた。物乞いの女子供がいたるところにいること。常に気を張っていなければ、物取りに遭うこと。どれも僕には想像するのも難しい世界だ。
考え事にふけっていたせいだろう。いつのまにか、踊り子らしき女達が、決めポーズをとっていた。召使たちが拍手を送る。次に現れたのは、例のひょろい男と少女、そして大きな箱だった。
「俺がこの中に入ります」
手を振りながら、箱の中に消えていく男。完全にその姿が見えなくなると、少女がふたを閉めた。
「私は、」
刹那、銀の光が散った。
「刺す!」
ズァッ、という木の削られる音とともに、彼女の手にいつの間にか握られていたナイフが、箱に突き刺さった。王の間がしん、と静まり返る。誰もが息を潜めていた。そうしていなければ、鈍く光るナイフの光に気圧されそうだった。ズァ、ズァッ。続けてもう二本、ナイフが刺さる。少女はそこでふっと一息つくと、箱から数歩下がった。代わりにパタパタとかけてきたさらに小さな女の子が、ナイフを全て箱から抜いた。そして、ふたを開ける。突然、何かが飛び出した。ぱっと両手を挙げた、その人は
「俺は、刺されません」
まったくの無傷だった。すごい。トラーにも、見せてやりたかったな。
最後に出てきたのは、奇妙な出で立ちの男だった。とんがり帽に大きすぎる服、左目の下には逆向きのハートマーク、右目の下には逆三角形が描かれている。白塗りの顔からして、ピエロと呼ばれる者であろう。実物は初めて見た。大道具の係りらしき青年が、僕の座る玉座から五歩ほどの眼前に机を置こうとした。
「無礼者!シュー王子に近づくとは」
鬼の形相で駆け寄った警備兵が止めに入る。
「待て」
その日初めて声を発した僕を、その場の皆が驚き見た。
「その者が僕に危害を加えるとも思えん。好きにさせろ」
「しかし」
「これは命令だ。僕は旅芸人に任せよと言っている」
「…かしこまりました」
警備兵がしぶしぶといった様子で引き下がる。僕は机ひとつ挟んで、ピエロと向かい合った。机の上には、空き瓶が十本ほど並べられている。ピエロは懐から二十センチほどの大きさの紙を取り出し、僕の前に広げた。
『この瓶を空中で回していきます』
以前何かの本で、ピエロはしゃべらないものなのだと読んだ記憶がある。彼もそうなのだろう。ピエロは三本の瓶を取ると、慣れた手つきで回し始めた。すぐに右手が机に伸び、もう一本加わった。さらに一本、二本、三本。回転を止めることなく、あっという間に頭上の瓶は七本になった。いや、八本だ。いつの間に。今度は見逃すまいと、ピエロの手元に注目する。それは数瞬だった。ピエロの左手が机上に残っていた二本の瓶を同時につかみ、空中に放った。
気付けば、僕は無意識に手をたたいていた。とても同じ人の成しえる業とは思えなかった。ピエロは先と逆の手順で瓶を戻すと、深くお辞儀をした。
「お前、見事な技だな」
ピエロは静かに首を横に振った。
「僕は君が気に入った。何か褒美をやろう」
僕の申し出に、ピエロは首を斜めに傾けた。表情が一切変わらないためわからないが、困惑しているようにも見える。
「それでしたら、報奨金を増やしていただきたいなと」
ピエロの後ろから口を挟んできたのは、旅芸人の長の者らしかった。
「もちろん、増額する。七百チルドほどな。但し、今聞いているのはこのピエロの望みだ」
チルド、とは、ストナレア国の金銭単位である。
「ありがとうございます」
長はにたにたとした笑みを浮かべながら、引き下がる。下品な奴だ。それに比べて、目の前にいる男はとても高貴に思われた。己の望みの全てを叶えられるこの状況に置かれてもなお、表情ひとつ変えない。
「個人的な望みでよい。何かないのか」
もう一度問うと、ピエロは懐から紙とペンを出した。そこに、さらさらと何かを書き付ける。
『こちらにトラーという男がいらっしゃいませんか』
頭の奥がすっと冷たくなった。トラー。その名をこんなところで見ることになるなんて…。
「おのれ、無礼者!」
横から文面を覗き見た警備兵が、慌ててピエロに飛びかかろうとする。
「やめろ。彼と二人きりで話がしたい。この者を別室に通せ」
「ですが王子!こんな得体の知らぬものと二人きりなど、危険すぎます」
「では、旅芸人の誰かを人質にとれ。それでいいだろう」
ピエロは、僕の知らないトラーを知っているかもしれない。
「さあ、別室に来てくれ」
場所は、僕の私室になった。ここにはいざという時の為の脱出ルートにつながる隠し扉がある。僕はその隠し扉を背にして座った。
「僕が提供する情報で君の望みがかなうなら、何でも話そう。僕もトラーについて語れるものが欲しかったのだ」
ピエロに向かって、厚いメモを放る。彼はすぐそこに書きだした。
『トラーは今、どちらに?』
瞳を閉じ、左の胸を触る。トクン、トクン…刻み続ける鼓動。
「トラーは、ここにいる。僕の中で僕を生かすために動き続けている」
『心臓移植、ですか』
「…ああ。僕は生まれつき心臓が悪かった。いつか心臓移植をしなくてはいけないことは、前々からわかっていたらしい。僕だけが、何も知らなかった。心臓移植には同じくらいの大きさの心臓が必要だ。つまり、子供には子供の心臓が必要だということだ。だからトラーは連れてこられた。いつか僕が本当に心臓移植を必要とした日のための、僕の心臓として。僕は何も知らぬまま、初めて王宮に現れた同年代の男の子に興味を抱いた。そして、入ることを禁じられていた彼の部屋に行った。そのとき彼は――いずれ僕のために殺されるのだと最初から知らされていた彼は――僕になんて言ったと思う?……友達になっていただけませんかって、それも笑顔で」
嗚咽をこらえながら、必死にしゃべる。それが、トラーを殺してしまった自分への罰だ。僕は一生、この罪を背負って、生きていかなくてはならないのだ。
『トラーは嬉しかったのだと思います』
「えっ…」
『王宮の外は、王子のご想像よりも酷い有様です。誰にも愛されず、必要とされずに、ただ命のみを与えられ、手放された子供たちも大勢いるのです。トラーもその一人でした。彼の場合は親がアルコール中毒による精神異常だったため、受けた傷も大きかったでしょう。そんな彼の目に、禁を犯してまで自分に会いに来たあなたがどう映ったか。これはあくまで僕の想像ですが、いつか死ぬという恐怖より、必要とされ、自分の存在意義がつかめた嬉しさのほうが強かったのではないでしょうか』
こらえきれなくなった涙が、インクをにじませる。ずっとずっと、トラーは僕を恨んでいたのではと思っていた。召使たちは僕を慰め、今まで事情を隠していたことを謝りはしたけれど、トラーが僕を許してくれるだろうとは言ってくれなかった。本当に、トラーは僕なんかが親友となったことを、喜んでくれていたのだろうか。
「人は死を恐れる。それでも、トラーはそれにも勝って嬉しかったと言えるか」
ピエロは迷うことなくペンを走らせた。
『これも王子はご存知でないかもしれませんが、外では大量の人々が朝を迎えられずに死んでいきます。子供一人で生きていく術は、ほぼ無いに等しい。王宮に連れてこられなければ、もっと早くに死んでいた可能性のほうが高いのです。トラーはそれを知っていた』
ほんの一時でも、誰かに必要とされて生きること。人生の尊さは、ただ長く生きることではない。…そんな簡単なことさえ、僕は気づいていなかった。トラー、君は命をかけて僕を生かし、大切なことを教えてくれた。僕が君にできること―――。
「この国が、もっとお互いの大切さに気づけるような、温かい心を持った国になるようにする。それが僕にできるトラーへの恩返しであり、償いだ」
ピエロが小さくうなずいた。
「ありがとう、ピエロ。これでは君の褒美としては割が合わないな。他に望みは無いのか」
『トラーから、♥Qについて何か聞いていませんか』
「ハートのクイーン…」
少し色の戻ってきた記憶を探る。モノクロになった記憶に色を戻してくれたのは、ピエロだ。本当に感謝せねばならない。
「あれは確か、トラーと出会って半月くらいたったころだったと思う。自分はスペードのキングという呼び名をつけられたのだと話していた。ほんの一夜限りだったが、王と呼ばれたことには変わりないから、王子より偉いかもな、なんて冗談を言っていたよ。それで僕が、ハートやダイヤのキングなんてのもいるのかと尋ねたら、キングだけでなくクイーンもいるのだと。あの七人のことはずっと忘れないだろうなって、すごく楽しい思い出のようだった。…心当たりはこれだけだ。たいしたことでなくて申し訳ない」
めずらしく、ピエロが考え込むようなしぐさをした。それから思い出したようにペンをとった。
『僕にとっては、今の話はたいしたことに十二分に入ります。話してくださってありがとうございました』
そのままメモを優雅とも言える手つきで僕に返すと、ドアの向こうに消えていった。
結局、あのピエロは何者だったのだろう。しかし、それはあまり重要なことではないように感じられた。トラーの思いを伝えてくれた。感謝すべき対象。それで十分だ。
トラー、僕の中で共に命数の尽きるまで、見守っていて欲しい。僕の手でこの国を変えてみせるから。だから、もっと温かな心を持った国になったそのときは。二人、同じ世界に生まれ変わって、もう一度親友になってください。そして今度こそ、キャッチボール、しような。
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