第一章 私は今
プロローグ
あの日同じ屋根の下、共に夜を明かした八人は、性別も年齢も生い立ちも違います。それでもたった一夜だけ、同じ運命の元にあったのです。悲しみ、苦しみ、不安ばかり。そんなあの日を境に、彼らの運命は大きく変わりました。先の見えない闇の中で彼らを支えていたのは、一人のクイーンの言葉でした。彼女の語る未来を口では夢物語だと言いつつも、全員が心の中で、現実となることを祈ったのです。
「お嬢様、待ってください!」
私の叫びもむなしく、ゼルドナお嬢様は早足に進んでゆく。今日はゼルドナお嬢様がずっと待ち望んでいた、ショッピングの日。既に私の両腕は、靴やらバックやらで一杯だ。積みあがった荷物で、前もよく見えない。このままじゃ、誰かにぶつかってしま…ぅあ
「いってぇな、テメェ」
思ったそばから、やってしまった。しかもよりによって相手は厳つい大男。よし、ここは一先ず。
「すみません、大荷物で前が見えなくて。あはは…」
笑顔で謝ってみようと試みたが、だめだ。怖すぎる。なんだか、余計に怒らせてしまった気も。
「こっちはな、そんな平謝りをして欲しいんじゃねぇんだよ。…お前、随分と良い身なりしてるな。よし。ここは金で解決といこうじゃねぇか」
「いや、私は唯の召使の身分でして…。お渡しできるようなものは何も」
困った。これは本当に困った。ここは貧富の差が恐ろしいほどに違う、ストナレア国。ほぼ只働き同然の召使でも、一日三回の食事をし、屋根のある部屋でベッドに入って眠れる時点で、恵まれている部類に入る。対する大男はその身なりからして、今日の食べ物にも困っている部類であろう。どんなことをしてでも、私から金目のものを奪おうとするに違いない。本当に、どうしよう。
「何をしているの、サロア」
聞きなれた声が、私を呼んだ。
「お嬢様!」
私より三つ年下である筈なのに、妙にしっかりしていて、大男より威厳のあるゼルドナお嬢様が、救いの神のように思われた。
「ほう。あんたがこいつの飼い主かい。あんたのとこの召使が、俺にぶつかってきやがったんだ」
「で?」
お、お嬢様。「で?」って…またすごい切り替えし方をしましたね。
「このクソガキ、俺を嘗めてんのか」
「このハゲオヤジ、私を誰だと思っている」
お嬢様の目は、しっかりと大男の瞳を捕らえて放さない。自分よりも十センチは低いお嬢様の後ろに隠れながら、私はかなりひやひやしていた。いくらお嬢様に肝が据わっていようと、実際に大男が実力行使に出たら、子供なんてひとたまりもないに違いない。
「サロア」
突然鋭く呼ばれ、びくりとした。
「はい、お嬢様」
「こいつにぶつかったっていうのは、事実なの」
お嬢様は大男と対峙したまま、こちらに向き直る様子はない。その無言の背中が、後ろを任せられたようで、少し嬉しい。…まあ、敵は一人しか居ないのだから、後ろを攻められることは皆無だけれど。
「荷物で前が見えなかったのでぶつかっ…」
「そう。サロアが前を見られないのを良いことに、金を巻き上げるためにわざとぶつかってきたのね」
「…お、お嬢様…?」
戸惑う私を完全に無視するお嬢様。ここはお嬢様に任せたほうがよいと判断し、口を挟まないでいることにした。
「私は生憎お金に困ってはいないので、あなたに賠償金を支払えとは申しませんわ」
お嬢様はそう言ってにっこりと微笑む。笑っているはずなのに、私の居る後ろ側まで負のオーラが漂ってきている気がするのは何故だろう。
「ハァ?俺はきちんと真っ直ぐ歩いていたね。ぶつかってきたのは、そっちの女の方さ。グダグダ言わずに早く金を出しな」
「分かって頂けてないようですわね。このままここで話していても埒が明なそうですので、裁判にしませんか」
「裁判!?」
大男が驚愕する。私だってびっくりだ。
「きちんと法の裁きに従うべきですもの。私は優秀な弁護人と共に、お相手させて頂きますわ。判決がどちらに下るか、楽しみですわね」
大男がたじろぐ。この国で正当な裁判をしてもらえるのは、一部の限られた人間―――王族や貴族、ゼルドナお嬢様のような大富豪など―――に限る。その他の者は、裁判を受け付けてももらえず、仮にしたとしてもろくに話を聞いてはもらえない。つまり、この場合裁判を起こす以前から大男の負けが決まっているも同然なのだ。
「では、裁判の手続きをしますから、お名前をうかがってもよろしいですか。サロア、紙とペンをお出しして」
私は慌てて、ポシェットから紙とペンを出そうとした。
「待ってくれ。今よく思い返したら、俺からぶつかったのを思い出した。悪かった、だから裁判は必要ない!」
顔を上げてみると、真っ青になった大男の姿が目に入った。この国で平民が裁判に負けることは、すなわち死刑を意味している。この大男とて、命が惜しくないわけではないだろう。
満足げに頷くお嬢様の後ろで、私は複雑な気持ちを抱えたまま、再び俯いた。卑劣な手を使ってでも益を得ようとする行為は勿論褒められたことではない。それでも命を軽く扱われるこの仕打ちを手放しに喜ぶ気にはなれなかった。これがこの国の現状だ。弱いものが虐げられ、強いものが全ての甘い蜜を吸う。そうしてさらなる格差が広がる。
私も大男と同じ立場だった。あの日までは。だからこそ、大男の気持ちが痛いほどわかってしまった。
「わかっていただければ、それで十分ですわ。それでは、お引取りを」
大男はお嬢様の一言で、そそくさと帰っていく。帰る場所があるかは、あえて考えない。お嬢様はくるりと、私のほうを振り返った。
「サロア」
「はい、お嬢様」
怒っている。というか、ものすごい剣幕。
「今回は相手が下人で、しかも簡単に言いくるめられるような馬鹿だったから良かったものを、これが王族の方だったりしたらどうするつもりなの!」
「も、申し訳ありません」
深々と頭を下げる。
「まったく。次はないからね」
「はい。気をつけます…」
しかし私は知っている。お嬢様が私を手放すつもりはないということを。実は私が「次はない」とお嬢様に宣言されたのは、これが初めてではないのだ。残念ながら、私は決して良い召使とは言えない。それでもお嬢様が私を置いていてくださるのは、解雇したが最後、私が飢え死にするのが目に見えているからだ。結局、お嬢様は優しいということで話は落ち着く。
「あー。もうショッピングする気が起きなくなっちゃった。帰るわよ」
「かしこまりました」
再び大荷物を持って歩き出す。数歩歩いて、お嬢様が振り返り手を差し出した。
「荷物、分けなさい。また誰かにぶつかられても私が迷惑だから」
「ありがとうございます」
やっぱりゼルドナお嬢様は優しい…とか思っていると、「但し、軽いのね、軽いの」と忠告が入った。
視界の開けた私は誰にもぶつかることなく、中央広場までやってきた。前を行くお嬢様が先ほどから右のほうを気にしている。つられて私もお嬢様の視線の先を見てみると、なにやら広場の片隅に、たくさんの人がいた。
「お嬢様、何でしょうかあの人だかりは」
みんな笑っており、中には歓声を上げている人もいる。
「サロアが気になるって言うなら、寄ってあげても良いけど」
お嬢様も何をしているか気になっているのが見え見えだ。意地を張っているだけで。
「私は気になります。お嬢様もお付き合い願えますか」
「仕方がないわね」
口調とは裏腹にお嬢様はとても嬉そうで、今にも駆け出しそうだ。普段は大人びているからあまり感じないけれど、ゼルドナお嬢様はまだまだ子供だ。まったく、微笑ましい。
人ごみを掻き分け最前列に出ると、そこには奇妙な出立ちの男が居た。青いとんがり帽子に、同じく真っ青なだぼだぼとした服。一番目を引いたのは、白塗りの顔と目の下に書かれた赤いマークとまっかな鼻。ちょうど何かをやり終えたところのようで、盛大な拍手をもらっていた。顔を上げた彼と、目が合った。彼はじっと私を見た。私にはそれがとても長い時間に思えたけれど、おそらく一瞬の出来事だったのだろう。彼はおもむろに懐からトランプを取り出すと、優雅な手つきでそれらをシャッフルした。いったんそのトランプをテーブルの上に置くと、隣にあったメモに何かを書いた。それをお客たちに見せる。
『今からそちらのお嬢さんにカードを一枚選んでもらいます。僕はそれを見ずに、お嬢さんが選んだカードを当てます』
おぉ。と、あちこちでどよめきが起こる。彼は先ほどのトランプを持つと、私に向かって差し出した。
「えっ、私ですか?」
お嬢さん、と書いてあったものだから、てっきりゼルドナお嬢様のことだと思っていた。戸惑う私を気にもせず、扇形に広げられたトランプ。どれにしよう。端からさっと眺めた私の目が、一枚のカードに吸い寄せられた。
―――あの日の私 全ての始まり
私は、スペードの十二をとった。
『そのカードを僕に見えないように皆さんでご覧になったら、残ったカードの間に戻して下さい』
指示されるがまま、カードを戻すと、彼はすぐにカードをシャッフルした。五十二枚のカードたちは彼に操られ、浮かび、赤いテーブルクロスの上に落ちた。そのたった一瞬のうちに、彼は空中を舞うカードに向かって、ペンを走らせた。しんと静まりかえった広場に、彼がペンにキャップを被せるカチッという音がやけに響く。ばらばらになったカードたち。その中の一枚が、彼によって拾われた。お辞儀と共に私に差し出されたカードは、私の選んだスペードの十二だった。脇から覗き込んできた観衆がどよめく。よく見ると、カードには先ほどまで無かったはずの何かが書かれていた。カードに描かれた王女の左側に記された文字。
『♠Qの幸せを願って』
はっとして彼を見ると、既に次の芸を始めてしまっていた。
「なにぼけっとしているの。帰るわよ、サロア」
自分ではなく召使が選ばれたことが癇に障ったらしい。お嬢様は輪を抜けてしまった。あわてて追いかける。人垣の外では、かごを持った十歳くらいの女の子がいた。
「観覧料を」
それだけ言って、お嬢様に向かってかごを出した。私はそこまで至ってようやく、彼が旅芸人の一員なのだとわかった。
「お金なんて、くれてやるわよ」
そうとうご立腹らしいお嬢様は、金貨を何枚かかごに入れた。私は後ろにいたため正確にはわからないが、かなりの枚数を出した気がする。
「あ、ありがとうございます!」
女の子もかなり驚いたようだ。お嬢様は返事をせず、早歩きで行ってしまう。必死についていき、私たちは馬車を待たせていたところに着いた。家はもっと高台の高級地にある。騎手が私たちに気づき、ドアを開けてエスコートした。
「あら、サロアそれ」
馬車に乗り込んでから、お嬢様が私の手元を指して言った。私の右手には、カードが握られたままだった。
「あっ、返し忘れて持ってきてしまいました。どうしましょう」
「でもそのカード、あなたへのメッセージが書いてあるみたいだし、どうせもう使わないんじゃないかしら」
確かに。納得した私は、ポシェットにカードを丁寧にしまった。
あの道化師は誰だったのだろう。カードに書かれたメッセージを思い出して、はっとした。
『♠Qの幸せを願って』
普通なら、「あなたの幸せを願って」と書くのではないだろうか。そこをあえて「♠Qの」と書いたのは…!
あの日…五年前の一夜が、鮮明に浮かび上がる。悲しみに満ちたあの夜を共にした七人の顔は、なぜか今でもはっきりと思い出すことができた。あの道化師は誰だったのだろう。今度の問いの選択肢は四人に絞られていた。Kを与えられし四人の男の子。白塗りの顔では、残念ながら判別できなかった。それでも、ばらばらになった運命の中から、再びめぐり合えたことは事実。
心の中で、五年前の姿のままの七人に呼びかける。
「私は今、幸せです。あなたたちも、幸せですか?」
ここまでお読みいただきありがとうございます。
この作品には続きがございます。
ぜひ次のお話もお読みいただけますと幸いです。
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