落語声劇「目黒のさんま」
落語声劇「目黒のさんま」
台本化:霧夜シオン@吟醸亭喃咄
所要時間:約30分
必要演者数:3~4人
(0:0:3)
(0:0:4)
※当台本は落語を声劇台本として書き起こしたものです。
よって、性別は全て不問とさせていただきます。
(創作落語や合作などの落語声劇台本はその限りではありません。)
●登場人物
殿様:江戸幕府に仕えるとある国のお殿様。
生まれながらにして泰平の世の中の殿様なため、世間一般とは
少々ズレている。
三太夫:殿様の家臣その1。
日々主君の無茶ぶりに振り回されている苦労人。
金弥:殿様の家臣その2。
重役と言う発言が台詞にある事から、身分はそれほど高くないと
思われる。
三太夫と同じく主君のわがままに心労が絶えない苦労人。
百姓:さんま焼いてた目黒のお百姓さん。
さんま焼いてたおかげで棚からぼたもち。
家来:殿様のご親類の大名の家臣。
包丁人:今でいう、各大名家に召し抱えられている専属シェフ。
●配役例:3人
殿様・百姓:
三太夫・包丁人・語り:
金弥・家来・枕:
●配役例:4人
殿様・百姓:
三太夫・包丁人:
金弥・家来:
枕・語り:
枕:江戸の昔、ある国の大名がおりました。
大名と言うと、立派なお城に住んで毎日贅沢三昧などと思うかもしれ
ませんが、意外にもしきたりに雁字搦めの不自由な生活をしておられ
た事が分かっております。
現代の我々だって残ってる文献調べてやっと知りえるわけですから、
当時の下々の者達がそういう事情を知らないのも無理はありません。
これは上下関係を端的に漢字の成り立ちで知る事ができます。
カタカナのトの字の上に一を引くと下、下に一を引くと上という字に
なります。
だから雲の上の方は下々の事は分からないし理解しない、
下々の人々も、雲の上の方の事情なんぞ知ったこっちゃないわけで。
また上と下の間には中の字が存在しますが、これは真ん中に一本芯棒
が通ってますから、上の事も下の事も理解できるというのはそこら辺
の事を言ったんでしょうな。
昔の殿様は江戸幕府成立後に生まれた、いわば生まれながらの大名な
わけですから、まぁモノを知らないにもほどがある。
ですがむしろそれがいい、あまり賢くてあれこれ指図する殿様だと
逆にお家が乱れるんだとか。
だからなるべくお殿様は周りがヨイショして育てるんですが、
しかしながら時にはたしなめる事もあります。
殿様:三太夫、三太夫はおるか!
三太夫:はっ、お呼びにございますか。
殿様:今宵は晴天である。お月様はでておるか。
三太夫:殿、お月様と月におの字を付けるのは、下々の下賤な言葉にござ
います。
殿は高貴にあられまするゆえ、月は月と呼び捨てになされませ。
殿様:ほう、さようか。
しからば月は出たか?
三太夫:はっ、一点の雲無く、冴えわたりおりまする。
殿様:うむ、では三太夫、ちこう寄れ。
三太夫:ははっ。
【二拍】
殿、ご用をおおせ聞けくださりませ。
殿様:実はの、そちに重大なる相談事がある。
がしかし、壁に耳あり障子に目ありゆえ、この場では申せぬ。
品川沖へ船を出せい。
三太夫:えっ、し、品川沖にございますか?
殿様:そうじゃ、はよう致せ。
三太夫:は、ははっ、ただちに!
殿様:うむ、参るぞ!
語り:主君の鶴の一言、否とは申せぬのが家臣というものです。
三太夫は一艘の小舟に主君を乗せ、自ら棹さして品川沖までやって
参りました。
殿様:ずいぶん沖まで出たの。
三太夫:はっ。
殿、この辺りならば釣り船の影もなし、
いかなる大声を発しましても、決して人に聞かれる気遣いはござ
いませぬ。
殿様:さようか。
では三太夫、もそっとちこう寄れ。
三太夫:ははっ。
殿様:実はのう……屋敷の庭に、豆を蒔こうと思うのだ。
三太夫:えっ、ま、豆…にございますか…!?
殿様:そうじゃ、豆じゃ。
三太夫:と、殿、そのような事はわざわざ船を出さずとも、
屋敷で申されれば事足りまする。
殿様:いや、さにあらず。
…鳩に聞かれてはまずかろうぞ。
三太夫:殿…さすがに鳩に人の言葉は分からぬかと存じます。
殿様:むむ…言われてみればそうであるな。
三太夫:【つぶやくように】
いや、普通に考えてくだされ、殿…。
殿様:よし、屋敷へ戻ろうかの。
語り:とまあ天然なのか大真面目なのか、いささか分かりかねることもあ
るかと思えば、意外に鋭いところもあったりするものです。
それはとある日の朝餉の風景、膳の菜っ葉を食した殿様が
声高に家臣を呼び立てます。
殿様:三太夫! 三太夫はおるか!!
三太夫:ははっ、三太夫これに控えておりまする。
殿様:なんじゃこれは!
昨日食したる菜っ葉は大層美味であったが、
しかし今日のは味が劣るぞ!
三太夫:殿、お言葉を返し恐れ入りますが、
昨日殿の食されましたる菜っ葉、あれは俗に三河島菜と申しまし
て、三河の百姓が下肥を用いて作りたるものにございます。
そのため一段と味わいがよろしゅうございます。
しかしながら本日殿の食されましたる菜っ葉は、
屋敷の庭におきまして魚の骨を肥料と致しましたため、
一段と味が劣るかと存じます。
殿様:ほう、さようか。
しからばその、下肥とやらを用いたるものは味わいが良いと申すか
。
三太夫:御意にございます。
殿様:ならば苦しゅうない。
これへ些かかけて参れ。
三太夫:と、殿、その、下肥と申すものはいわゆる肥しの事にて、
直接かけるものではございませぬ。
殿様:なに、そうであったか。
まあよい。
しからば次は…鯛を食そうかの。
(いつ見ても赤うて身も乾いておるわい…)
んむ。
【咀嚼している】
(しきたりとはいえ一箸しか付けられぬとは…
丸まる一尾食したいものよ…)
美味じゃ、替わりを持てい。
三太夫:ははっ!
(鯛は一尾しか用意しておらなんだはず…ならば…!)
殿、あれあの庭をご覧遊ばされませ。
もみじの紅葉が一段と美しゅうございます。
殿様:ほう…庭のもみじがの…
三太夫:(今じゃ! 鯛の表裏をひっくり返して…!!)
殿、替わりの鯛を持参いたしましてございます。
殿様:なに、早かったのう。
どれ…
んむ。
【咀嚼している】
(ふふふ、余の目はごまかされぬぞ…
どれ、少しばかりからこうてやるかの。)
美味じゃ、替わりを持てい。
三太夫:は、ははッ!
(これはいかん、同じ手は使えぬ…
ひっくり返せば先ほど食された跡が…!)
殿様:何をいたしておる。
早う持って参らぬか。
三太夫:あ、いや、その…。
殿様:(あまり困らせてもならぬの…。)
ならば余がもう一度、庭のもみじを見ていようかの?
三太夫:!あっ、では…!?
…殿、お戯れが過ぎまする。
殿様:ははは、許せよ。
ちと其方をからこうたのだ。
語り:とまあこんなもので、朝から家来衆の困る顔を楽しんでいた殿様。
しかしいくら高貴な大名だからって屋敷の中に篭りっきりですと
身体がなまって錆びつこうというものです。
刀と一緒ですな。
殿様:これ金弥、金弥はおるか!
金弥:はっ、お呼びでございますか。
殿様:見よ、実に良い天気であるな。
金弥:御意、見事な日本晴にございまする。
殿様:かような晴天のおり、屋敷に篭っておるのは無聊にすぎる。
どうじゃ、遊山などに参ろうか?
金弥:殿、同じ事なれば、武芸鍛錬のために野駆け遠乗りなど結構かと
存じます。
殿様:うむ、良い所に気が付いた。
久しくせぬが、どのあたりまで参ればよいかの。
金弥:されば、下屋敷から程遠くない、目黒などいかがでございましょう
や?
殿様:おぉ目黒か。
彼の地は川あり谷あり、紅葉も美しい。
しばらく行っておらぬの。
あい分かった、では遠乗りいたすとしよう。
馬を引けぃ!
金弥:ははっ!
馬をこれへ!
三太夫:殿、こちらへ!
殿様:うむ、用意が整うたな。
者ども余に続け! はいやーっ!!
金弥:と、殿!?
い、いかん、すぐに後を追わねば!
三太夫:えっ、では我らの馬は?
金弥:今から厩へ行っている暇はない!
走るのだ! それ駆けろおおおお!
三太夫:殿ぉー、お待ちくだされぇぇ!!
殿様:はいや、はいやーッ!
語り:馬に一鞭くれて駆け出したお殿様、慌てる家来たちを尻目に
一人いい心持ちで馬を走らせます。
ところが昔の馬の鞍は木製なもんですから、長い事揺られていると
尻が痛いのなんの。
ついに目黒を目前にして耐え切れなくなり、馬から飛び降りて尻を
さすります。
殿様:あたた…久方ぶりに馬に乗ったら尻が…。
それにしても家来どもはいかがしたのだ?
金弥:はあはあ、殿――ッッ!
三太夫:と、殿、はあはあ…ち、遅参、ご容赦くださいませ。
殿様:遅いッ!
その方ども、これがもし戦場なら、一騎駆けした余は敵に討たれて
いるやもしれぬぞ!
金弥:殿…恐れながら申し上げます。
殿は馬、馬は四つ足我らは二本足、所詮かなうところではございま
せぬ。
殿様:黙れっ!
その方どもはなんと柔弱な事を申すか!
伝え聞くいにしえの太閤、豊臣秀吉公が若年の折、
主君織田信長公の馬の轡を取り、遅れず田楽狭間へ駆け通したと
いうではないか。
いにしえの方々はみな健脚ぞ!
金弥:昔は昔、今は今、そこまでおおせられるならば、
あれに見ゆる小高い岡の赤松まで、駆け比べなぞいたしましょう。
殿様:なに、駆け比べじゃと?
ははは、駆け比べといえど、余はその方らに引けは取らん!
三太夫:さような高言は勝った後におおせられませ。
参りますぞ!
金弥:それえええーーッッ!!
殿様:!んなっ!?
そ、その方、どこにそんな力が残っておったのだ!?
【走りながら】
はあ、はあ、これ、待たぬか!!
ええい、家来の分際で余よりも先を駆けるとは…!
もうやめじゃ!
三太夫:あぁいかん、殿はあきらめて座り込みそうだし、
金弥殿もムキになられて止まりそうにない。
このままでは…よし、ここは一つ…。
ふんんッ!
殿様:お? おお?
これは追い風じゃな! 神仏は余に味方しておる!
前を走る金弥の背中も近づいてきたわ!
語り:いくら主君の申し分に腹が立ったからって先にたどり着いたら、
下手すりゃあ切腹ものです。
後ろから押してもらってようやく前を走る家来に追いついた殿様。
その頃には先を駆けてた家来の方も頭が冷えてるもんですから、
わざと速度を落として主君が抜きやすくする。
身体半身の差で殿様が一着、江戸の昔なので写真判定無し。
殿様:その方ら、やはり余にはかなわんの。
金弥:恐れ入りました。
我ら、何事も殿にはかないませぬ。
殿様:うむ、わかればよい。
…だいぶ空腹を覚えたな。
弁当をこれへ持って参れ。
三太夫:べ、弁当でございますか?
金弥:殿…恐れながら申し上げます。
あまりに火急の事のため、弁当は持参いたしておりませぬ。
殿様:な、なに、弁当が……ない?
たわけ…余は、ここで、死ぬぞ…?
三太夫:も、申し訳ございませぬ…。
殿様:…三太夫、空が…抜けるように青いのう…。
三太夫:御意…。
殿様:金弥…、赤とんぼが空を飛んでおるのう…。
金弥:はっ…とんぼどもも、今が盛りの時期でございますゆえ。
殿様:盛り…そうか、つまり旬ということであるな。
よし苦しゅうない、あの赤とんぼをこれへ持て。
腹の足しにはなろうぞ。
金弥:恐れながら殿、赤とんぼは虫ゆえ食べられませぬぞ。
殿様:何を申すか。
俳句にもあるぞ。
赤とんぼ 羽を取ったら とんがらし と。
金弥:殿…それはもののたとえにございます。
赤とんぼが食べられるのを詠んだものではありませぬゆえ。
殿様:そうか…ならばこの空腹、いかにしたものであろうか…。
【匂いを嗅ぐ】
むむ? これ金弥、この異なる匂いはなんじゃ?
金弥:匂い、でございますか?
【匂いを嗅ぐ】
あ、これは、さんまにございます。
殿様:さんま…耳慣れぬ名前よの。
さんまとはいかなる獣であるか?
三太夫:殿、獣ではございませぬ。
魚にございます。
金弥:この匂いはおそらく、さんまを焼いておるものと心得ます。
殿様:ほう、魚であったか。
では食してみるかの。
金弥:殿、さんまは下々の者が食す下魚でございます。
高貴な殿が口にされてはなりませぬ。
殿様:たわけめ、武士が食べ物の好き嫌いを申すべきではない!
何より腹が減っておっては戦はできぬぞ!
そのさんまとやらをこれへ持て!
目通りを許す!
三太夫:は、ははぁーッ!
金弥:し、しばしお待ちを!
【二拍】
まったく殿も無茶をおおせられる。
さんまを食べさせたなどと重役に知れたら、それこそ我らは責めを
負わねばならぬぞ。
三太夫:だが殿の命令に背くもまた不忠。
辛いところだ…お、あれではござらぬか?
金弥:うむ、そのようだ。
あ~これこれ。
百姓:へ、へい、これはお武家様。
あっしに何か、御用でございますか?
三太夫:実はな、我らが主君がさんまを所望されておる。
今焼いておるのをそっくり譲ってはくれぬか?
百姓:さ、さんまでございますか?
へへーっ、お安い御用でございます。
金弥:おぉすまぬな。
これはさんまの代金じゃ。
百姓:へっ、こ、小判!?
こ、こんな大枚をいただいても、よろしいんで!?
三太夫:うむ、取っておけ。
百姓:あ、ありがとうごぜえますだ!
もうしばらくお待ちくだせえ、すぐに焼きあがりますんで!
語り:ほどなくして縁の欠けたお皿に、焼きあがったばかりのプシュプシ
ュ音を立ててるさんまを10尾乗せ、脇には大根おろしに醤油を
たらし、殿様の前に運ばれました。
金弥:殿、ご所望のさんまにございます。
殿様:おお、待ちかねたぞ!
!!? こ、これがさんまであるか?
三太夫:はっ、さようでございます。
殿様:むむぅ…今まで魚というものは色赤く、平べったく、
反り返っておるものばかりと思うておったが…、
これなるさんまは色黒く、長細く、横っ腹と思しき所には、
赤々と消し炭がついておる…!
たぎっておるのは…油か?
いや、このようなものが魚であろうはずがない!
金弥、これは爆弾ではないのか!?
金弥:さにあらず。
見かけは悪うございますが、食すれば美味なる魚にございます。
殿様:さ、さようか…食しても、大事無いのだな?
三太夫:はい、大事ございませぬ。
殿、その醤油のかかった大根おろしと共に食するのが良いと聞き
及んでおります。
殿様:ほう…どれどれ…。
んむ。
【咀嚼している】
んむ!? むむむ!?
こ、これは……美味である!!
【次から次へと口へ運んで食べている】
金弥:…夢中で召し上がっておられる…。
三太夫:さもあらん。
いくら鯛とは言え、いつもお毒見の手を経てから出される、
冷めて身の乾いたものばかりだでのう。
野駆けにて適度な運動をなされて空腹の所に旬の、
それも焼きたてのさんまは格別であろうの。
殿様:んん~~美味、美味じゃ!!
これ、替わりを持てぃ!
あいや待て、裏がまだじゃ。それっ。
【一拍】
うむうむ、これほどの美味なる魚、しっかと味わわねばの。
んむ、さんまと申すか! うむ、まっこと美味じゃ! うむ!
三太夫:…金弥殿。
金弥:それ以上言われるな。
お主と気持ちは同じじゃ。
殿様:ふう…美味であった! 美味であったぞ!
頭と尻尾と骨が残った。
その方たちに下げつかわす!
三太夫:…。
金弥:あ、ありがたきしあわせに存じます。
殿様:しかし、世の中に斯様な美味なるものがあるとはの。
なぜ余に知らせなんだ。
三太夫:殿、恐れながら申し上げます。
目黒においてさんまを食されましたる段、何とぞご内密に願いま
す。
殿様:む、余がさんまを食すと、何かまずいのか?
金弥:御意。
もしご重臣の耳に入りますと、我ら一同の不徳にて後で切腹…
ということに相成ります。
殿様:ふうむ、さようか。
しからば余は口が裂けても、目黒においてさんまを食したとは申さ
ぬ。
そちらの迷惑になるようなことはせぬゆえ、安堵いたせ。
三太夫:ははっ!ありがたき幸せ!
殿様:では屋敷へ戻ろうぞ!
語り:すっかりご機嫌うるわしく、お屋敷へ帰って参りました殿様。
しかし夕餉の膳につきますと、いつものようにまた出てくる例の
赤くて、平べったくて、冷めた赤いの。
それを見た殿様、溜息と共に昼間食したさんまの味を思い出します
。
殿様:またこの魚か…。
(ああ…昼間のさんまは美味であったのう…。)
金弥:殿、いかがなされました?
箸がお進み遊ばされておらぬようですが…。
殿様:見よ、この鯛を。
毒々しい赤色じゃ。
大きな目で余を睨みつけおる。
可愛げのない魚だの。
三太夫:【以下、声を落として】
金弥殿…。
金弥:昼間の一件であろうなあ…。
三太夫:いかにも…、よほどお気に召されたようであったしなあ…。
金弥:しかし屋敷でお出しするわけにもいかぬでな…。
三太夫:うむ…。
殿様:それにひき比べ、目黒で出会うた、さんま…。
あの黒々とした凛々しき姿、すらりとした体躯、そしてあの悩まし
げな眼差し…さんまに逢いたいのう…。
語り:一度味わったさんまの魅力に、すっかり虜になってしまった殿様。
世の中は天下泰平なもんですから、他に考えることもない。
寝ても覚めてもさんま、さんま…夜明かししてもさんま、さんま…
。そのうち思い余ってさんまが人間の形をとるんじゃないかってく
らい、恋焦がれてしまう。
焦がれるあまりに恋わずらい、顔色が優れなかったりしてきます。
殿様:あぁこれ金弥、また目黒などに参りたいのう。
金弥:はっははっ、目黒は風光明媚な場所につきましてーー
殿様:【↑の語尾に被せて】
風光などはどうでもよい。
その折に食せし…何と申したかの、余は忘れてしもうた。
あの長やかなる…黒やかなる…、あの美味なる…
金弥:【↑の語尾に被せて】
殿、との、何とぞその話はご内密に…
殿様:たわけめ、分かっておるわ!
余は目黒とは申した。
目黒とは申したが、さんまとは申しておらぬぞ!
金弥:【声を落として】
(いや、はっきり申されてますぞ、殿おお…!)
語り:もういつ殿様が重役の前で口を滑らすのではないかと、
ご家来も身の細る日々です。
さんまの味を知った日から数日、殿様がご親類の大名の屋敷に招か
れることになりました。いわゆる園遊会ですな。
大名というものは普段食べたいものを食べられるわけではありませ
ん。
しかしこういうお招きされた時だけは、好きな献立を注文できると
いう習わしがありました。
さあ殿様、ここで言わなきゃいつ言うんだ、今でしょとばかり、
声高らかに宣言しました。
殿様:うむ、余はさんまを所望するぞ!
家来:あ、按摩でございますか?
殿様:何を申しておる。
按摩が食えるか。
さんまじゃ、さんま!
家来:し、承知つかまつりました!
【二拍】
はあ、はあ…これ、包丁人!
包丁人:はっ、ご親類のお殿様は何とご所望されました?
家来:う、うむ、それがな…、さんま、と申された。
包丁人:えっ、さ、さんま!?
下魚の?
家来:そうじゃ。
包丁人:いやいやまさか。
あれ程のご大身のお殿様が、さんまなどをご存じのはずはありま
すまい。
今一度聞き直された方がよろしいかと。
家来:た、確かに。
すぐ聞いて参る。
【二拍】
殿様、恐れ入りますが今一度、ご所望の料理をおおせ聞けくださりま
せ。
殿様:なに、今一度?
だからさんまと申しておるではないか!
黒やかなる、長やかなる魚である。
よいか!
家来:は、ははぁーッ!
【二拍】
き、聞いて参った!
やはり、さんまであった。
包丁人:ま、まことですか…。
しかし、さんまのごとき下魚は用意しておりませぬゆえ、
急ぎ日本橋の魚河岸まで行かねばなりませぬ。
家来:わ、わかった、行って参る!
語り:さぁもう間違いない、それ急げとばかり親類のご家来衆は馬を飛ば
して日本橋まで来ると、房総半島で取れたさんまを選りすぐって
帰って参りました。
家来:はあ、はあ…今戻った!
さんまを手に入れて参ったぞ…これじゃ!
包丁人:ご苦労様にございます。
しかし…さんまは油の強い魚じゃ。
万一油にあたっては一大事、どう調理したものか…。
!そうじゃ、まずは蒸し器にて油をそっくり落とすのじゃ!
家来:お、おぉ…見事なまでにパッサパサだ…。
包丁人:よし…これで油は除いた。
だがさんまは小骨の多い魚。
万一喉に刺さっては一大事…皆、毛抜きを持て!
骨と言う骨を取り除くのじゃ!
家来:むむ…骨は全て取り除けたが…身がもうクッタクタだ…。
包丁人:…。
よし、残った身を丸めて団子にし、お吸い物としてお出しするの
じゃ!
家来:も、もはや原型をとどめておらぬ…。
語り:さんまというものは、炭火で焼いて醤油と大根おろしでいただくの
が美味い、包丁人だってそれは分かっている。
しかし油が強くて骨の多いものをそのまま出し、万一の事があった
ら打ち首か切腹か、包丁人もそればかり恐れて調理したもんですか
ら、さんまはもう見る影もない。
家来:お待たせいたしました。
ご所望のさんまにございます。
殿様:おお、待っておったぞ……む?
これ、さんまを所望したのだぞ。
さんまと申すものはな、すべからく縁の欠けた皿に乗っておるもの
だぞ。
しかし、いちおう中身をあらためる。
…!! この匂いは紛れもなくさんまじゃ…!
会いたかったぞ…そちも堅固でなにより。
どれ…んむ。
【二拍】
(ま、不味い…なんじゃこれは…!)
殿様:これ、直答を許す。
このさんまはいずれにて仕入れた?
家来:はっ、日本橋の魚河岸にて、房州より取れたての本場のさんま、
仕入れましてございます。
殿様:なに、日本橋? それはいかん。
さんまは目黒に限る。
終劇
・参考にした落語口演の演者様(敬称略)
三遊亭圓楽(五代目)
三遊亭圓楽(六代目)
春風亭一朝
「次はどの落語を台本に書き起こそうかなあー、他の人が書いてないのを優先で―。」
と思いつつあれこれ探した結果、4作目は目黒のさんまに決まった次第です。