8話 GⅠ 優駿牝馬(オークス)
5月4週 東京 2400m 芝 左
GⅠ 優駿牝馬
桜花賞の後、ソヨカゼは1週間の短期放牧に出された。それは肉体的な疲労よりも、激戦を抜けた精神的な疲労を智子が考慮したからだ。
その智子は、預託馬がソヨカゼしかいない事を理由に、放牧先である実家に居座っていた。
「やっぱここにいると、ソヨカゼが生き生きしてるわね」
ベンチに座ってお茶を飲みながら、智子は言う。
目の前では、ソヨカゼが走ったりまだ少し雪の残る草地の上でゴロゴロと転がったりして、遊んでいた。
そして、ナヨタケはそんな娘を座りながら眺めている。
「ま、実家だからな」
智子の隣に座り、同じくお茶を飲んでいる信忠は答えた。
「なら、ノブ君も偶には実家に帰ってみたら?」
意地悪そうにしているが、少しは親としての姉を気遣ってもいる。
「俺の住居は馬房。実家はそこ。食事の度に帰っている」
お茶を啜りながら、少し捻くれた答えで返した。
「そっか。ところでノブ君に相談があるんだけど、次のレースでソヨカゼを本気で走らせてみない?」
「ん?ごめん。意味が分からない」
「んー。ソヨカゼは成長途中だし、夏を超えてから本格的に走らせるつもりだったの」
「それが何故、次のレースで?」
「色々と意味があるんだけど、一つは時期よ。次のレースが終われば、そのまま長期放牧出来るし」
「あぁ。宝塚は回避するんだ」
「ノブ君がどうしてもって言うなら考えるけど、もしオークスの後にするとしてもジャパンダートダービーのつもりだったわ」
「それは何故?」
「ダート適性の高さを見る事と、牡馬との対戦を経験する事と、2000mを経験する事と、オークス後を考慮して脚に負担が少ないダートって意味と、来年もしも海外を視野に入れた場合にダート実績を持っていたいから」
いっぺんに言われ、信忠の頭は満室になる。
「2000mは秋を見据えてか。やっぱ事前に距離を試しておきたいものなのかな?」
「そうね。まあ、ここに巴がいないから言うけど、半分以上は巴の成長の為よ。正直なところ、本番のレースで巴にペース配分させるのは、まだ少しだけ不安が残るもの」
「だから、ずっと馬なりか」
何かモヤモヤしていたところがスッキリして、信忠は合点がいった。
「それと、ソヨカゼが賢いからね。信じられないけど、残り400mまでソヨカゼは桜花もチューリップも阪神JFもほぼ同じタイムなの」
「嘘?」
「じゃないわよ。少しは誤差があるけど、巴に実戦でペース配分させるよりも、よっぽど正確にタイムを出しているわ。ずっと1600mで統一してきたからなのかな……」
「毎回ソヨカゼが同じタイムなら、別にそのままでもいいんじゃないか?」
「桜花でコーナー途中の直線前に交わされたのも、ソヨカゼがタイムを合わせようと少しスピードを落としてると考えたら、このままじゃマズイ気になったわ」
「あ、もしかしてソヨカゼにとってレースがそういうものだと勘違いしてるって事か」
「えぇ。だからこその、本気なんだけど……」
智子は言い澱む。
それは競走馬の宿命でもある。
桜花賞で見せたスノーベリーの走り、限界を越えてでもソヨカゼに勝とうとしていた。それは一歩間違えれば故障に繋がる事でもある。
「怪我の可能性が高くなる、か桜花の後にスノーベリーの骨折が発覚したように」
信忠は智子が言いずらい部分を補足する。
「えぇ。巴にはまだ、その限界を見極めるのは難しいわね。馬の能力を100%引き出す事は、101%にしてしまう危険と隣り合わせだという事がね」
それでも、勝ちに行かなければならない時もある。
陣営によっては「壊れてもいい、責任は持つ」と全力を出してくるのだ。そんな陣営を相手に、手加減して楽に勝てるほど競馬は甘くなかった。
それこそ、前回の桜花賞で信忠陣営に突きつけられた事でもある。
「分かった。ソヨカゼが万全の状態の時なら」
「勿論よ……ありがとう」
何故智子が礼を言うのか、信忠には分からなかった。
だが、そのままお茶を啜りホッとした表情の智子に尋ねる事は、信忠には躊躇われた。
東京都府中市にある東京競馬場。そこに雄大なファンファーレが鳴り響く。
それは、特別なレースの証。
会場には10万人を越える人が訪れ、その熱気は独特なものだ。人数だけでも、武道館や東京ドームより遥かに多いのだ。
2枠③番ソヨカゼはゲートの中でリラックスしていた。どちらかと言うと、巴の方が落ち着かない。
二頭目にゲートに入ったが、ゲート入りを盛大に嫌がる馬がいる所為で、長い時間ゲートの中で待たされていた。
経験の少ない巴にとっては、それは初めての事だ。こんな時にどうすればいいのか分からない。
だからなのか、ソヨカゼに話しかけてしまう。
「大丈夫だよ、落ち着て」
ソヨカゼより自分に言い聞かせる言葉。
リラックスしているソヨカゼは、「大丈夫?」と巴を心配するように耳を動かした。
ソヨカゼにしてみれば、散々信忠と遊んだゲートで幾らでも経験していた。
数秒で開いても、何分待たされても、いつでも反応出来る。
「あ、そうだ。今日はね、最初から思いっきり全力で走っていいよ。ここにいる他の馬に、ソヨカゼの力を見せつけてあげようね」
思わず首を少し曲げ、巴を見た。
ソヨカゼにとって他の馬は、どう接していいのか分からない存在だった。
実家なら母のナヨタケがいる。というより産まれた時から、ナヨタケしか知らない。
むしろ、ソヨカゼの中で家族と呼べるのはナヨタケと信忠と仁くらいだ。
馬付き合いが苦手なソヨカゼ。だからこそ、こうしてレースに出ても、どこか他の馬に合わせないといけないと思っていた。
故にソヨカゼは、「え!?本当にいいの?」と巴を見て確認してしまう。
「大丈夫。ソヨカゼの凄いところを、皆んなに見せつけようね」
巴の言葉に「りょーかい」とでも言う感じに、ソヨカゼは前を向いた。
そして、全神経を集中させていく。
その空気に当てられ、巴も前に集中した。
人馬一体になった時、係の人がゲートから離れていく。
そして、ゲートは開いた。
スタートからして、ソヨカゼと巴にはコースと自分たちしかいなかった。
青々とした芝の上、何処までも2人で走っていける。
その気持ちが溢れ、巴の口元は緩む。
巴は、笑っていた。
そして、ソヨカゼはその笑い声に応えるように、グングンとスピードを上げていく。
『これは、大丈夫なのか!?場内が騒然としています。ソヨカゼの大逃げが炸裂。既に後続とは10馬身離している。今、1000mを通過。タイムは……手元の時計で57秒?もしかしたら56秒台かもしれません。信じられない速さだ!それで持つのか!?』
静かだ。
音が消えていく。
誰もいないターフの上を、ソヨカゼと2人だけで走っている気がした。
『最終コーナーを曲がり、ソヨカゼだけが直線へ来た!後続はその位置から、果たして届くのか!?この差はセーフティーリードなのか!?ソヨカゼの脚色はまったく変わらないぞ』
「ここまで違うのか……」
信忠の呟きに、智子は黙って頷く。
『後続が直線に来た!だが、ソヨカゼは遥か先にいるぞ。間に合うのか!?各馬一斉に追いだした!次々と鞭が舞う!』
楽しい。
うん。とっても楽しい。
『ソヨカゼ!ソヨカゼだ!もう、ソヨカゼしかいない!後ろからは何も来ない!何も来ないぞ!!!ぶっちぎりでソヨカゼだ!!!!』
アナウンサーの絶叫が響く。
会場からは、割れんばかりの大歓声。
『今、1着でゴール!!!文句なしの単独ゴール!ソヨカゼが1着!2着のシーズンスターに10馬身以上の大差をつけてのゴールだー!!!桜の女王が見事に二冠目を手にしました!もう、三冠は目の前だ!!!』
「凄い……」
分かっていた。
いや、分かっているつもりだった。
それでも、この結果に智子は胸をときめかせる。
表には決して出さないが、それでも心の何処かで思っていた。
もしもソヨカゼの上に、自分が乗っていたらと……
騎手から調教師に転向する時、未練なんか無いと。そう、思っていたのに。
智子の心には、娘の巴に嫉妬する気持ちがあった。
ウイニングランで誇らしげなソヨカゼと巴に、智子は拍手する。
手の痛みなど感じないように、強く、強く、強く、拍手した。
口取り式には、慣れないスーツ姿で戸惑いながらソヨカゼの傍に立つ信忠がいた。
そして、遠くからその姿を見ている夫婦がいる。
「いいものだな……」
深森匠は、息子の晴れ姿を見て心から思っていた。
「おめでとうって言いに行く?」
礼子が尋ねるも、匠は首を振る。
「いや、帰ろう。あの姿を見れただけで充分だ」
匠は手に持っている馬券を大切そうに財布に仕舞う。
たった100円のその馬券。
単勝で買った馬券には③の数字が記載されていた。
「そう?ま、貴方のプレゼントしたスーツ姿を見れたものね。ふふふ。馬子にも衣装ってこのことよね」
妻の言葉を諌めようかと匠は思うが、それをやめた。
馬に詳しくない匠だが、馬に携わる人々にとっては、その言葉は誇りかもしれないと考えたからだ。
「親として、親らしい事などしていない。それでも、こうして立派に成長するんだな」
「あら?そんな事はないわよ。貴方が人命を大事にするように、あの子も自分以外の何かを大事にしてるもの」
そして、2人は人混みの中に消えていった。
受け継がれていく『魂』を感じながら。
【ソヨカゼ】
スピード:A+→S
スピード:S
勝負根性:A+
パワー:S+
瞬発力:B
柔軟性:B
健康:A
精神:A
賢さ:S+
距離適性:不明
スキル:スタート・二の脚・大舞台