4話 GⅠ 阪神ジュベナイルフィリーズ
12月2週 阪神 1600m 芝 右
GⅠ 阪神ジュベナイルフィリーズ
(牝馬限定)
美浦トレーニングセンターに厩舎を構える智子のもとに、1人の獣医が来ていた。
それは信忠の母、深森礼子だった。
「智子。診察、終わったわよ」
「ありがとう、姉さん。それで、ソヨカゼの様子はどう?具合の悪いところは無い?」
「心配しなくても、健康そのものよ。と言うか、どこも悪いところが無い事くらい、智子にも分かるでしょうに」
「そうなんだけどね。いやぁー、予想外に前のレースで全力出してたから、どうしても心配になって」
頭をかきながら、苦笑いして言う。
「何かあったの?」
「それがさ、いくら尋ねても巴ったら言わないのよね。何も無いって言うばかりで。あの賢いソヨカゼがコーナーから加速する時点で、何も無い訳無いのに。こちとら、2歳シーズンで身体に負担の掛かる全力は、その後の成長に影響するからさせるつもり無かったのに……まったく、あの子は」
「そこまで考えてるのは、ソヨカゼの血統のせいかしら?」
「まあね。競走馬の宿命とはいえ、クロフネもライスシャワーも怪我で泣かされているから。ノブ君との約束もあるし、怪我は可能な限り避けるわ。幸いオーナーのノブ君が、その点を理解してくれるだけでも、ローテーションを組む私としては大助かりよ」
「信忠が馬主ねぇ。ふふ。似合わないわね」
「姉さん……そういう所を直さないから、ノブ君は家出したと思うわよ」
姉の言葉に呆れながら、智子は言う。
「あら、可愛い子には旅をさせろ、って言うし。元気にしてるなら問題無いわ。それより、ソヨカゼは次のレースの後はどうするの?」
「ん?年明けは3月から動くつもりだから、3週間くらい放牧するつもり」
「それがいいわ。たぶん、智子が考えている以上に、あの牧場はおかしいもの」
「どういうこと?」
「以前、母さんの20周忌で会った人から聞いたんだけど、お父さんとその人は牧草の品種改良に数十年費やしているみたい。その改良されまくった牧草が、あの牧場に使われてるのよ」
「うっわぁ。そこまでするか?ってきり、例の件で競馬から身を引いたと思っていたのに」
「本人の中では引いてるんでしょ。馬主を信忠にさせるしね。まあ、そんなお父さんだから、放牧中のソヨカゼは安心出来るわね」
その言葉に激しく同意する智子だった。
「あ、そうそう。今日の出張費込みの診察代金、ちゃんと振り込みなさいよ」
そして、激しく首を振る智子だった。
恒例となった作戦会議。いつものように、智子が話し始めた。
「ついに1番人気ね、おめでとう」
「ありがとう?」
何て答えるのが正しいのか、よく分からないまま信忠が礼を言う。
「ふふふ。馬券を買う意味では、微妙だけどね。さて、知ってる部分もあるだろうけど、このコースの説明からするわ。阪神競馬場の1600mは外回りで最後の直線は473.6mあるわ。これは右回りなら、日本一の長さよ。前走の東京や新潟は左回りだから。そして、中山や東京と同じく最後の直線が坂になってる。つまり、長い直線で坂があると、差し馬が間に合いやすいって事ね。桜花賞で最後尾から14頭を差して勝ったハープスターみたいに。ここまではいいかしら?」
信忠と巴が頷く。
「今日は今までとは違って、素質馬が揃っているわ。GⅠだけあるわね。騎手も馬も一流よ。レースの展開としては、登録してる中に逃げ馬が二頭いる。その馬達は前半から果敢にソヨカゼとせってくるわよ」
「2番手や3番手に抑えた方がいいって事?」
「ふふふ。ノンノン。逆よ。今までと同じように馬なりに走りなさい。今回は1枠②番の最高の場所にいるのよ?そのソヨカゼを簡単に抜けるわけ無いじゃない。でもね、後ろから見た場合は、それが分からない。騎手が一流であるほど、ソヨカゼが逃げ馬と同じく掛かっているように見えるはず。まして、差しを狙うならその展開を期待してるからね」
逃げ馬がいて高速なレース展開ほど、差し馬に有利ではある。
それを騎手の立場から見た智子の想定は、同じ騎手として巴には実感出来た。
「ふふふ。ソヨカゼを潰すためか分からないけど、せっかく逃げ馬を当てて来たのだから、思いっきり利用しましょう。ここで同世代に敵は居ないと格付けしておけば、そのぶん来年が楽になるわ」
「つまり、来年はチューリップから桜花?」
「ノブ君、正解。今日と同じ場所、同じ距離、同じ右回り。悪夢を見たら、来年まで引きずる事になるわね」
その時の母がした不敵な笑みを思い出しながら、巴は走っていた。
ソヨカゼに並ぼうとしているのは、母の予想通りの馬達。でも、並べずにいる。ラストスパートのように全力を尽くしているのに、それでも並べない。
逃げ馬にとって先頭以外では力を発揮出来ないのだから、簡単に諦める事も出来ない。
でも、無理よ。
内枠のソヨカゼにテンで勝つなら、一流のスプリンターぐらいだわ。
結局、逃げ馬達は最終コーナーまで持たずに脱落した。
その馬達を交わした差し馬達。
次々と直線に入って、ソヨカゼに向かって追い始めた。
だが、その差は縮まることなく断トツでソヨカゼがゴールする。
いや、唯一ただ一頭だけソヨカゼとの差を5馬身まで縮めた馬がいたが……届く事は無かった。
巴にとって初めてのGⅠ勝利なのに、緊張より喜びより、母に対する畏敬が湧いていた。
現役時代、『掲示板の管理人』などと言われた母。そのカッコ悪い二つ名。
それが今の巴には、別の意味に見えた。
どんな馬に騎乗しても、高確率で掲示板に載せる。
母が現役時代してきたこれは、圧倒的な迄にレース展開を予想したからなのかもしれない。
未来予知に匹敵するそれは、名馬に出会え無かったから天才騎手の陰に隠れただけで、もしも今の自分みたいにソヨカゼに騎乗していたら……
「やったね、ソヨカゼ。GⅠ勝利だよ」
巴は寒気を振り払うように、ソヨカゼに話していた。
【ソヨカゼ】
健康:B+→A