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3話 GⅢ アルテミスステークス


10月5周 東京 1600m 芝 左

GⅢ アルテミスステークス

(牝馬限定)


府中市にある東京競馬場。信忠はまたしても、秘書の霧隠と共にいた。中山の時はお爺さんの過保護かと思っていたが、それが間違いだと実感する事になる。


「ソヨカゼのオーナーですか?初めまして、私はヤシロRCの代表を務めている吉野です」


「はい。初めまして。深森です」


青年らしいぎこちない挨拶に、苦笑いする吉野。だが、傍にいる霧隠を見て驚く。


「お久しぶりです。霧隠さんがいらしているなら、真田さんも?」


吉野は辺りを見回しながら尋ねた。


「いいえ、真田は来てはおりません。此方にいる深森は、真田の孫で御座います」


霧隠の言葉に、吉野はまたしても驚く。そして、その表情を不敵に変えた。


「なるほど……ソヨカゼは、あの真田さんが……これは侮れないです。このレースにはウチの馬も出走しますよ。ぜひ、勝負といきましょう」


そう言って吉野は去る。

残された信忠の心には、何故かモヤモヤした気持ちが渦巻いていた。

それは吉野の眼中に自分は無く、この場に居ないお爺さんを見ている気がしたからだ。


「霧隠さん。今の人って凄い人なんですか?」


「それはもう。日本有数の馬主にして、あのヤシログループの中枢メンバーです」


「ヤシログループ?」


「とても大きなグループです。その活動は多岐に渡りますよ。自前でトレーニングセンターすら持っていますからね。また、国内に絶大な影響を与えた種牡馬を持ち込んだ事でも有名です。あのサンデーサイレンスやトニービン、ノーザンテーストやリアルシャダイなど」


「リアルシャダイって、ライスシャワーの父でしょ」


「えぇ、それもあって吉野様は声を掛けたのだと思いますよ」


驚愕した。

馬主とはかくも奥の深いものなのかと。

自分の馬だけではなく、出走する他の馬をチェックする。そこまでなら信忠も理解していたが、まさか種牡馬で挨拶すらしているとは思わなかった。


だが、考えてみれば当たり前なのかもしれない。種牡馬を利用するお客様を、それだけ大切にしているのだから。

もっとも、その当たり前が難しい。

そして、それをし続けているからこそ、日本有数なのだろう。


「至らないとは、こういう事なんだ」


「そこに瞬時に気づく深森様も、私からしてみれば非凡だと思いますよ。それに深森様の馬券の買い方は、勝負師としてもかなりのものかと。中々、普通の方ではああいった買い方は出来ないものですよ」


新馬戦で信忠が買った馬券は、ソヨカゼと1番人気の馬だった。


「結構、普通の買い方だと思うけど……」


「財布に入れてある10万円を、全てそれに使うのは、非凡ですよ」


霧隠は嬉しそうに言う。

人生の半分以上を信忠のお爺さんと共に過ごしてきた霧隠。まるで若い頃の真田仁さなだひとしと一緒にいるみたいで、今まで以上に毎日が楽しくなっていた。






「さて、まずはこうしてレースに出走出来たことを喜ぶべきかしら。除外される可能性もかなりあったから、正直ほっとしているわ。それで作戦なんだけど、ハナを切って馬なりよ」


「前回とだいたい同じ?」


「えぇ、その通り。ハナを切ってと言ったけど、無理しなくてもソヨカゼなら出来るわね。なら距離も前回と同じだし。では、何が違うかしら?」


「場所と周りかた?」


「ん、もっと正しく言うと、来年の5月にまたくる場所で、その時と同じ左回りよ」


「5月ならオークスの予行練習って事?」


「その通り!間違っても前回みたいにならないでね。今日の経験は、そのままオークスで使えるものになるのだから。まあ、オークスの場合は距離が2400mだから、厳密にはそのままじゃないけどね。NHKマイルカップには出ないつもりだけど、秋の天皇賞やジャパンカップも開催されるコースよ。頭だけじゃなく、身体に覚えさせなさい」


「大丈夫?来年の話をしてると、鬼に笑われるらしいわよ」


「あはは。いいわ、鬼に笑われるなんて最高じゃない。もっとも、私の中では再来年の事まで考えているから、この場合鬼はどうするのかしら?」


「知らないわよ」


智子と巴の母娘の会話を聞きながら、信忠はモヤモヤした気持ちを吐き出す事にした。


「あのさ、今日のレースってそれで勝てるのかな」


「ん?突然どうしたの?」


「いや……なんか、今日のレースは負けたくなくて……」


その信忠の反応が智子には嬉しかった。本来、負けてもいいレースなど存在しない。だが、それは他人から言われて教わる事では無かった。

本人の心の奥底から湧き出る気持ちだ。


何があったか智子には分からないが、漠然と何か素敵な出会いがあったのだと考えた。


「んー。ノブ君の気持ちは尊重したいんだけど、出来ればソヨカゼが負けるギリギリまでは馬なりで行きたいの」


「それはなんで?」


「今、ソヨカゼに教えているのは先行でのレース。ソヨカゼが速すぎて逃げみたいになってるけどね。どちらにしても、その場合は勝負根性が大事なの。これって負けた時や負けそうになって、初めてソヨカゼの中に生まれるかもしれないものなのよ。だからなるべくなら、早目に負けるかもしれないギリギリの戦いで、勝負根性を鍛えたいの」


「つまり、逃げ先行じゃ無ければ、勝負根性は必要ない?」


「逃げ先行よりは、必要ないわ。でも、ソヨカゼの場合は屋根が巴である限り、逃げ先行よ」


「それは何故?」


「巴が女の子だから。勘違いしないで欲しいけど、私が言いたいのは不利な筋力体力勝負をわざわざする必要が無いって事よ。寧ろ、巴の最大の利点である空気抵抗の少ない小柄な体型とバランス感覚。この二つを最大限に活かすなら、逃げ先行しか無いって事」


「……分かった」


智子は信忠に話すようにしながら、娘の巴に伝えていた。

なまじ母娘で距離が近いため、直接言うよりも効果的に伝わると考えていた。


「でもねぇー、ソヨカゼを負かせるのは至難なのよね。ハッキリ言ってしまうと、2歳で牝馬なら負けようが無いわね。あのテクニカルで高低差があり、外枠不利な中山であんな勝ち方が出来るんだもの。府中の直線の高低差すら、ソヨカゼは気にしないと思うわ」


その智子の発言で信忠は思う。

長野にいた頃は、文字通り山の中で毎日林道を走っていたソヨカゼだ。競馬場の高低差なんか、ただの平地にしか思ってないのかもしれないと。


「ソヨカゼを潰しにくるのは、もう少し先って事?」


「えぇ。その時ターゲットにされるのは、恐らく屋根の巴ね。早目に馬群の中に入れようとしてくるんじゃないかな。枠番次第だけど」


智子の頭の中には、色々なレース展開が繰り広げられていた。







レース開始前、ゲートの中で巴は落ち着いていた。レース2戦目にして、驚くほど落ち着いていた。


母の言葉を思い出すと、どう考えても負ける気がしない。

言ってしまえば、鞍上の騎手など誰が乗ってもソヨカゼは勝つと言われたようなものだ。

それは騎手として悔しくもあるが、馬の能力の前には騎手の力にも限界があるとも言える。


「まあ、気楽にいこうか」


巴の落ち着いた言葉に、ソヨカゼも同意するように耳を軽く動かした。



ゲートが開く。



その瞬間、巴の視界にはコースと自分達しか映らない。

それは誰よりも速くゲートを出た者だけが、見る事の出来る景色だった。


「凄い……」


これが本来のソヨカゼのスタートなのだ。

感嘆の吐息を漏らす巴。

直ぐに自分の体内時計を確認しながら、耳を澄ます。左回りのこのコース。外からくるなら右耳に馬の走る音が聞こえてくるし、内にいるなら左耳から聞こえてくる。


だが、音は離れていた。


いや、内に一頭近づいてくるのがいる。

巴はコーナーを曲がるタイミングで、一瞬だけ後ろを振り返る。


「白帽、袖が黄縦縞……」


服まではハッキリしないが、巴には誰か直ぐに分かる。

帽子の色は枠番で決まっている。

白帽子は1枠だ。

これで二頭に絞られる。

そして、騎手のユニホームは馬主によって決まっている。同じ柄は登録出来ない。

袖が黄縦縞なのは、ヤシロRCだ。


そしてこのレースでのヤシロRCの騎手は、巴の同期だった。

しかも巴とは違い、10年に1人の新人として業界から期待されている人物。既にデビューして二桁勝利を挙げ、うち2つは重賞の勝利だ。


その人物こそ武田和樹たけだかずき、あの天才ジョッキー武田豊の息子だった。


「彼には……彼だけには、負けたくないな……」


同期だ。仲も良い。


騎手養成学校時代では、散々負けた。

デビュー後だって、散々負けた。

と言うか、同じ土俵で勝負すら出来ていなかった。

それでも、と巴は思う。


「負けたくない」


最終コーナーで発したその巴の声は、ソヨカゼにハッキリと聞こえていた。

相手は経済コースと呼ばれる、内ラチにぴったりと張り付いての最短距離を走っている。巴はやや離れ外よりだった。


そこからソヨカゼが走ったラインは、真後ろに他馬がいれば、失格になるようなライン。


ソヨカゼは加速しながら、コーナーを斜めに走り抜ける。まるでGPでモンスターバイクを走らせるように、一瞬だけインにより、そのまま加速しながらアウトへと抜ける。


その見るものを驚愕させる走りに、スタンドからは大歓声があがった。



内では、経済コースから直線に入って必死に追っている。

だが、直線前から最高速に加速してるソヨカゼとは離れていくばかりだった。


東京競馬場の直線は、心臓破りの直線。本来なら馬にとってキツイ傾斜が待っている。

けれど、智子が言った通りそれすらソヨカゼには関係なかった。

最高速は衰えることなく、大歓声を浴びながらそのままゴールする。



二着とは10馬身以上の大差をつけて。






レース後、武田和樹はあまりの悔しさに、唇を震わせ、目を赤く充血させ、それでも涙は流すまいと、硬く眉間に皺を寄せながら、頭を下げていた。


「申し訳ありませんでした」


その謝罪を受けていたのは、ヤシロRC代表の吉野だ。


「謝ることは無い。武田君は良くやってくれた。このレースはソヨカゼを褒めるべきだよ。追いつけないとみて、直線で馬に無理させなかっただろ?それでいて、危なげなく二着に入っているんだ。私はその騎乗に満足している」


武田和樹を労わる言葉に、「ありがとうございます」と感謝を述べて武田和樹は退出していった。


彼が出て行ったあと、吉野は窓から競馬場を眺める。


「流石は真田さんと言うべきか……いや、違うだろ。私は誰だ、私達はなんだ。ヤシログループだろうが!一年を無駄にしない、シーズンを無駄にしない、一戦を無駄にしない。それこそがヤシログループだろうが!敵は迷わず……潰す」


吉野は電話を取り出して秘書にかける。


「早急に兄さん達と会議がしたい。ヤシロホールディングスでの調整を頼む」


電話を終えた吉野の眼差しは、憎しみと歓喜が混ざり熱く燃えていた。






【ソヨカゼ】

スキル:スタート


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