2話 新馬戦
9月3周 中山 1600m 芝 右
新馬戦(牝馬限定)
その日、中山には大勢の人々が押し寄せていた。勿論、彼らの目当ては新馬戦ではない。10Rに行われる、GⅡ朝日杯セントライト記念だった。
そこには皐月賞、ダービーと三冠を賭けて戦う馬達が、最後の菊花賞へ向けてステップレースとしてここに来ていた。
皐月賞を取った、ビブラート。
ダービー馬の、ラストブリット。
この二頭が登録しているのだ。本番の菊花賞を前に、既にデッドヒートしている。これでは、会場が異様に盛り上がるのも分かるというものだ。
その中で、信忠陣営は作戦会議をしていた。
その場には、信忠と智子。そして騎手の有馬巴、お爺さんの秘書を勤める霧隠の4人がいる。
「いい感じに緊張してるわね。でも、安心していいわ。今回、巴がとる作戦は一つ。真っ直ぐ馬なりに走らせてくるだけよ」
智子は、実の娘で今年デビューしたばかりの新人騎手の巴に、優しく話す。
「えぇ。分かったわ」
若干の震えを抑えようとしながら、騎手学校を卒業したばかりの巴は答えた。
「まぁ、これが初めてのレースだから、緊張するなとは言わないわよ。注意するのは斜行。最初のコーナーまでは無理に内に付けようとしない事。鞭は禁止。終始馬なりに真っ直ぐ走らせるだけよ。ね、簡単でしょ?」
「えぇ……でも、それでいいの?」
巴は戸惑いながらきく。騎手学校を卒業してから、かなりの月日が経つのに、未だレースに出た事が無かった。
本来なら中央で走らせるには、それなりの実績が必要となるが、そもそも未経験の新人騎手に依頼する馬主はほぼおらず、結果的には厩舎専属になれない新人騎手に活躍の場が与えられない。
だが、騎手後続の育成を考え、それではまずいと新人騎手にはかなりの特例措置が設けられる事になった。
そのお陰で、巴は騎乗する事が出来る。
「それについては、ノブ君も気にしないわよね?」
智子に話を振られ、信忠は頷く。
「あぁ。正直なところ、勝ち負けよりも怪我だけはしないでくれる方が、嬉しい」
とても勝負に人生を賭ける馬主とは、思えない発言である。
「ほら、ノブ君もこう言ってるし、今は焦らずに1戦の経験を積んでいきなさい。……でも、普通にソヨカゼが勝つわよ。あの仔、本当に凄いもの」
「そうなのか?」
「新馬戦に出る他の馬が可哀想になるくらい、レベルが違うわよ。ノブ君は馬券買いなさいよ。さっきまでだと、5番人気で45倍だったわよ。きっと血統だけじゃなく、新人騎手と新人厩舎のダブルアタックで人気薄なのかも。ふふふ……ソヨカゼの倍率が二桁でいられるのは、そんなに長くないわよ」
「ソヨカゼの血統って、悪いのか?」
「んー。父クロフネ、母父ライスシャワー。なにを考えてお父さんが配合してきたか、それが分かる人以外はただのマイナー血統かも。クロフネはもう種牡馬引退してるし、ソヨカゼが最後の世代ね。もち、ソヨカゼはダートも芝も走らせられるわよ。とりあえずは芝で行くけどね」
「ん?爺さんって昔からあそこに住んでるんじゃないの?」
「ノブ君が産まれた頃には、そうね。でも、もっと昔は北海道に大きな牧場を経営してたのよ。まあ、この話はまた今度。それより、緊張感は程よくなったかしら?」
雑談を聞いていたお陰で、自然と震えが止まっている巴に、智子は優しい笑みを浮かべながら尋ねる。
「うん。ありがとう」
「よし。じゃあ行ってきなさい」
次々とゲートに入る馬を見ていると、巴はまた緊張感が溢れてきた。落ち着かなければ、そう考えるほど不思議なくらい緊張感が溢れる。
心臓の鼓動が周囲に聞かれているのでは、そう錯覚すらする。
今日の新馬戦は全部で6頭。
ソヨカゼは6枠⑥番だった。ゲートに入るのは1番最後になる。
緊張したまま、巴はゲートに入る。
そして、落ち着く間もなくゲートが開いた。
あ、出遅れた。
巴は焦る。ゲート内で深呼吸しようかなどと余計な事を考え、開いたタイミングを逃した。
それどころか、ソヨカゼが行こうとするのを邪魔してしまった。
焦る気持ちが増す中、巴は母に言われた言葉を繰り返す。
「真っ直ぐ走ろう。とにかく、真っ直ぐ」
そうして直ぐにコーナーが目の前にくる。
後ろを確認するまでもなく、真横に他の馬がいるのが分かる。
え、どうしたらいいの?
内に付けようがない。
その瞬間、巴の頭の中は真っ白になった。
『この場内のどよめきが聞こえますでしょうか?最後のコーナーを回り、先頭はソヨカゼだ。直線に入ってもなお脚色は衰えない。後続との距離をドンドンと離していく。これは、圧倒的な強さだ。1着はソヨカゼで決まりだ。2着は混戦。レンドルージュがやや体勢有利か。っと、どうしたソヨカゼ?ゴールを過ぎてもなお、減速していない』
アナウンサーの実況が聞こえた訳じゃないが、その時初めて巴は自分がゴールしている事に気づいた。
「あ、ソヨカゼ。もう、ゆっくりで大丈夫だよ」
慌ててソヨカゼに巴は話しかけた。
レースがいまいち分からなかったソヨカゼは、その声で減速する。
「前に誰も走ってなかったよね?私達が1着かな……」
後ろを振り返れば、後続とはかなり距離が離れていたが、減速するのが遅いせいかもしれないとも思えた。
巴にしてみれば、よく分からない内にレースが終わっていた。
「お疲れ様。初騎乗、初勝利、おめでとう」
母からの言葉に、ようやく勝利した実感を味わう。
「ありがとう」
「ふふふ。今日のレースの映像、ちゃんと録画したから、後で見なさい」
智子の若干意地悪そうな笑みが何を意味しているのか。それに気づいたのは、巴が自分の部屋で今日のレースを見た時だった。
画面の中で、大外から出遅れてスタートしたソヨカゼが、そのままずーっと大外を走りながら、何故か後続を突き放した後も、ひたすら大外を走り続けている姿が映し出されている。
しかも、ゴールした後も。
「いゃあーーーーーー!」
余りの恥ずかしさに巴は悶絶する。それを膝に抱えたクッションが懸命に受け止めていた。
【ライスシャワー】
作中において、6歳で春の天皇賞を勝ったあと、そのまま種牡馬となる。
宝塚記念?知らない子ですね状態。