14話 放牧その3
放牧その3
たった一つの問題点に目をつぶれば、信忠はいつもと変わらない正月を迎えていた。
今もソヨカゼは元気に雪の中を走っているし、ナヨタケもそれを楽しそうに眺めている。
礼子や智子がいるだけで、家の中が賑やかなのも変わらない。
「信忠君は本当に馬が好きなんだね」
わざわざ暖かい御茶を水筒に入れて持って来ると、それをコップに注ぎ、信忠に差し出しながら有馬良寛は言う。
「どうなんですかね。なんとなく、人間が好きなんだねと聞かれているみたいで……上手く答えられません」
巴の父親であり叔父である良寛からの言葉に、コップを受け取った信忠は困りながら答えた。
「その答えだけで、充分想いが伝わるよ」
御茶を飲んでいる信忠に、良寛は言った。
そして静寂な時が流れる。辺り一面の真っ白な雪が色々な音を食べているのだろう。
その空気に信忠は悩む。
信忠自身にとっては、沈黙は嫌いじゃない。だが、良寛と2人だけになる事に慣れておらず、何か話すべきかと考えていた。
「あの……変な事を聞いてもいいですか?」
信忠の遠慮がちな質問に、良寛は「なんだい?」と優しく言う。
「どうして智子叔母さんを選んだのかなあって」
「あはは。実を言うとだ、それは逆なんだよ」
「逆ですか?」
「彼女が僕を選んでくれたんだよ。彼女を好きな男はかなりいてね、その中で僕は目立たない方だった。もちろん、僕なりに精一杯アプローチをしたさ。それでも他の男たちに比べれば、自分が劣っていると思っていた。だから、覚悟を決めて告白した時も、真剣にプロポーズした時も、受け取ってくれた事にむしろ僕が驚いたくらいさ」
あまり良寛が饒舌になるところを見た事がない信忠。少し戸惑いながらも、それでも気になった部分を尋ねる事にした。
「それは謎ですね」
「だろ?信忠君も気になるよね。でも、僕にはそれをなかなか彼女に聞く事が出来なかったんだ。ようやく聞けたのは、巴が産まれた時。赤ん坊の巴を抱きながら、彼女は答えてくれたよ」
「して、その答えは?」
「僕の苗字が有馬だから、結婚したら有馬記念に勝てると思ったってね」
そのあんまりな答えに、信忠は絶句した。
だが、その様子に良寛は大爆笑する。
「あははは。ごめん、ごめん。全部冗談だから」
大人の冗談にはついて行けそうもないと、心から思う信忠だった。
それと同時に、きっと2人だけの大切な想い出は、誰にも言いたくないものなのかなと漠然と感じた。
松の内を過ぎた頃には、智子以外が帰っていた。
信忠がいつものように牧場を確認していると、一台の高級車が来る。もっとも雪の所為で霞むような汚れと、未舗装の山道を走ってきた汚れが高級感を感じさせなかったが。
その高級車から降り、牧場を見ている少女と美女。そこに信忠は近づくと声を掛ける。
「すみません。ここは私有地なので勝手に入ってこられると困ります」
「問題ないわ。私は気にしないもの」
アリスは言う。
信忠にしてみれば、その意味不明の回答を理解出来ず、困惑していた。
「私はアリス。日本生まれ日本育ちの100%アメリカ人よ!」
それは、困惑してる信忠に追い打ちをかけるような、斬新な自己紹介だった。
「あー、俺は信忠。って、そうじゃない。勝手に入って来ないで下さい。麓の看板に書いてあるでしょ」
こんな意味不明な相手に敬語や丁寧語が本当に必要なのか、そこに疑問符を浮かべる信忠。葛藤が色々混ざり、対応が変になる。
「ふふふ。私はアメーリカ人です。日本語の注意書きなんて読めませーん」
注意書きって分かる時点で読めてるだろ、と信忠は思う。
その2人の会話が余りにも進まない事に、傍に立つ秘書は促す。
「お嬢様、そろそろ本題に入られては……」
「そうね。信忠!私と正々堂々と勝負しなさい!」
アリスの宣戦布告。だが、信忠には全く理解出来なかった。
そもそもアリスを知らなかった。
それでも、言葉の節々から得た情報を、まるでモザイク画のように当てはめる。
そうして出来上がった人物像。
「もしかして、アリスブラックの馬主さん?」
「その通りよ!だから勝負しなさい!」
アリスはこう言っているが、厳密には企業が所有している。
「いや、突然勝負って言われても……」
「もちろん分かるわ。だから今からなんて言わないわよ!ソヨカゼの次走を教えなさい!こっちから戦いに行くわ!」
それに対して信忠は本気で困る。
たった一つの問題点。
それが解消されないと、次走がハッキリと決まらないのだ。
そこで、信忠は大雑把な予定だけ答えた。
「一応、ドバイに行く予定……確定して無いが」
信忠の口からドバイって出た瞬間に、アリスの表情はすっごく嬉しそうに変わる。
「そうよ、その通りよ!最高の戦いには、それに相応しい舞台が必要よ!決戦の地はドバイね!そこで今度こそどっちが強いのか、ハッキリとさせるわ!」
アリスは断言する。もともとアリスブラックは海外遠征の予定だった。
もっともソヨカゼ次第では、国内に変更も辞さないつもりだったが。それなのによりにもよって、当初の予定だったドバイである。
ドバイシーマクラシック。ドバイで行われる芝のレースだ。そこでの決戦をアリスは楽しみにしながら、帰って行った。
泥だらけのマイバッハという、ある意味で稀有な高級車が立ち去って行くのを信忠が眺めていると、そこに智子が寄って来た。
「お客さんかと思ったけど、もしかして迷い子だった?」
「ライバルらしい……」
智子の質問に、宣戦布告してたアリスを思い出しながら、信忠は答えていた。
「ふふふ。何それ。それよりもソヨカゼはどう?やってくれそう?」
苦笑し終えると、智子は不安そうに尋ねる。
「ダメ。すっごく嫌がってる」
そうなのだ。
それこそが問題だった。
ナナイロシップとの対戦で、ソヨカゼはレースに出たがらなくなっていた。
「まだ、ダメなのかぁ。しかも、よりにもよってあの馬、所属をJRAに変更してるものね。陣営の思惑が見て取れるわ。どうせ、フェブラリーステークスでソヨカゼにまたぶつけるつもりなんでしょ」
地方所属馬がJRAに所属を変更するのは、あり得る事だった。もちろん、馬だけではなく騎手も。その逆も。
「ソヨカゼ曰く、2度と会いたくない相手らしい」
「あらら。あの馬も随分とソヨカゼに嫌われたものね。ま、栗東に入ってるしこっちが国内ダートを回避すれば、2度と会わないでしょ」
「今、その線でソヨカゼを説得してるけど、ドバイって本気?」
「ええ、もちろん!ただ、招待を受けれるかは……まだ未定だわ」
月日が流れ、そんな信忠陣営に1通の招待状が届く。
それこそ、ドバイワールドカップへの招待状。ダートにおいて、世界最高峰と呼んでも過言にならないレースだ。
そのレースへの招待状が届くのは、ソヨカゼのダート実績が評価されたからでもある。
その日から、信忠はソヨカゼを更に励ましまくる。まるで雪を溶かすような熱が篭る日々。
大好きな信忠に、連日褒められるソヨカゼ。
ついに、その闘志に火がついた!
【ソヨカゼ】
闘志:減少→MAX