12話 GⅠ ジャパンカップ
11月4週 東京 2400m 芝 左
GⅠ ジャパンカップ
茨城県美浦村にある美浦トレセン。
最大2600頭を収容する巨大厩舎群は、国内どころか海外を含めてもその規模はトップクラスである。
その施設も非常に充実しているのだが、欠点もあった。それは平野部にある為に、どうしても坂路コースが貧弱になってしまう事だ。
それを改善しようにも、土地の問題で事実上不可能だった。
その美浦トレセンで、智子は頭を悩ませていた。
坂路コースについてではない。ソヨカゼの場合は、入厩前は勿論、短期放牧のたび天然の坂路コースを楽しんでいるのだから。
「まさか、こんな問題があったなんて……」
「すみません。自分の力がおよばずに……」
頭を抱える智子に、厩務員の根津公平が申し訳なさそうに声を掛けていた。
「ううん。根津君の所為じゃ無いわよ。私の所為だわ。この事態をまったく想定してなかったもの」
それは秋華賞の後に判明した。
秋華賞のレースで巴が足に怪我をしたのだ。恐らくレースで激しくぶつかり合った時なのだろう。
幸いな事に、骨までは異常がなかったが医者からは念のため2週間の安静を言い渡された。
「いえ、有馬さんの所為では無いです。自分も気づくべきでした」
根津は智子をフォローする。
「いいえ、私の所為よ。今までずっと巴だけに調教を任せ過ぎていたもの。その所為で、ソヨカゼが根津君を背に調教でちゃんと走らないんだわ」
それが判明したのは短期放牧から戻り、さあ調教を開始しようとした矢先の事だった。
ソヨカゼは誰が乗っても暴れたりはしない。むしろ美浦トレセンでは、かなり大人しくしている。
とても手のかからない馬だ。
それなのに、調教で走らなくなってしまった。
「そんな事は無いと思うのですが」
根津には、ソヨカゼが乗り替わりを嫌がっているとは思わなかった。
「なら、どうして調教で走ってくれないのかしら。根津君を嫌っている訳でも無いのに」
「自分にもそれが分からないです。ソヨカゼの調子が悪い訳でも、機嫌が悪い訳でもないのですが」
智子と根津は、2人して頭を抱えた。
そして智子の脳裏に浮かんだのは、ソヨカゼやナヨタケとまるで会話するような、信忠の姿だった。
智子は電話を取り出すと、信忠にかける。
「はい。もしもし」
信忠は面倒くさそうに電話に出る。
馬主になってから渡された携帯だったが、信忠との相性が悪かった。
必ず持ち歩けと、智子に半ば強要されたその携帯。連絡先登録された件数が1桁の時点で、信忠にとっての携帯がどういう存在なのか分かるというものだ。
「ノブ君、あのね……非常事態よ。詳しくはこっちに来たときに話すから、大至急美浦トレセンまで来て!」
電話の向こうで、信忠を驚きと不安にさせることを智子は言い放ち、そのまま電話を切った。
その日の内に、信忠は美浦トレセンに来ていた。4駆の軽トラで大急ぎで来たのだ。
「ソヨカゼ!大丈夫か?」
真っ先に厩舎にいるソヨカゼへと、信忠は駆け寄った。
だが、そこにいるソヨカゼは、「わーい」と無邪気に喜んでいるだけだ。
信忠はソヨカゼを心配して、全身をくまなく見るが……何も見つからない。
「ん?……あれ?」
とりあえず安心した信忠に、ソヨカゼは鼻を押し付けていた。
信忠と微かに残るナヨタケの匂いは、ソヨカゼを安心させてくれる。
そこに智子が現れた。
「どういう事なのか、説明してくれるよね。智子叔母さん……」
過分に怒気を含む信忠の言葉に、流石に智子も慌てる。
「ごめんなさい!でもね、非常事態なのは本当なの!」
智子は頭を下げながら言った。
その叔母の姿と、ソヨカゼに会えた嬉しさもあり、信忠は怒気を鎮めた。
そして溜め息を一つ。
「もっと詳しく説明して、何があったの?」
そうして智子から事情を聞いた信忠は、早速ソヨカゼに確認した。
するとソヨカゼは、なんだか気まずくなり顔を背ける。
そこに、信忠は優しい声を掛ける。
「気にしないで大丈夫。別にソヨカゼは何も悪くないから」
ソヨカゼは信忠に撫でられながら言われ、振り返り信忠を見る。「ほんと?」と心配してるソヨカゼ。信忠は「もちろん」と笑顔で答えた。
「えっと、どういうことか教えて貰えるかな?」
「分かった。ちょっと叔母さんとあっちで話してくるから、またな」
ソヨカゼが、「はーい」と首を上下に動かしている。
そして厩舎を出て、ソヨカゼに聞こえないところまで離れると、信忠は説明をした。
「ソヨカゼが気にしているのは、巴の事だよ」
「巴の事?」
智子はその予想外の答えに、驚きを隠せなかった。
「ソヨカゼはさ、巴が怪我したのを自分の所為だと思ってるんだよ。それで真面目に走ると、誰かを怪我させるんじゃないかと気にしているんだ」
「それって、放牧してる時も?」
放牧中のソヨカゼを思い出しながら、智子は確認した。
「いや、そんな事は無かったよ。多分、その時は巴の怪我を知らなかったから……かもしれないけど」
信忠にもそこまでは分からなかった。
もしかしたら、今も自分を背に乗せたら走るのかもしれない。何処かに、その気持ちもあった。
「分かったわ。巴の怪我もあったしエリ女を回避してジャパンカップに照準を決めたわ。調教については、プールを上手く利用してなんとかするわよ」
智子は今すぐソヨカゼに無理して走らせるのをやめた。
それよりも巴が復帰した後、ソヨカゼの様子を確認しながらの方が良いと考えたのだ。
『夢の共演!今、最強馬が決まる!』
今年のジャパンカップは信じられない事になりました。昨年、ライバルであるビブラートとの激戦を繰り広げ、惜しくも菊花とジャパンカップで負けたラストブリット。その逆襲は、有馬記念から始まりました。
今年に入ってからも、その快進撃は止まりません。大阪杯、春の天皇賞、宝塚記念、秋の天皇賞と既にGⅠ 7勝を挙げています。もはや現役最強馬と呼べる同馬。その次のターゲットは、昨年の忘れ物。そう、ジャパンカップです。
それに挑むのは、今年菊花賞で圧勝し無敗で三冠を達成したアリスブラックだ。同年代に敵なし、常に圧勝してきた同馬。満を時して、王者ラストブリットへ挑戦状を叩きつける。
その熱い男たちの戦いに、一陣の風が吹く。
その風こそ、ソヨカゼだ。
エリザベス女王杯を回避し、次走に決めたのは驚きのジャパンカップ。秋華賞で私たちに見せた、あのカシスレーベルとの激戦は記憶に新しいでしょう。僅か2cmを制し、見事に無敗牝馬三冠を達成!
その後は、プール調教ばかりで故障も心配された同馬。有馬騎手が怪我から復帰すると、まるで互いに確かめ合うようにタイムを上げていきました。
さあ、どうなる!?
現役最強馬ラストブリット
無敗三冠馬アリスブラック
無敗牝馬三冠馬ソヨカゼ
この三頭が今、府中へと集う!
『今、各馬ゲートイン。スタートしました!真っ先に綺麗なスタートを切ったのはソヨカゼだ。そのまま先頭に立つのか!?いや、アムネジアも良いスタートだ。これは先頭争いだ。アムネジアとソヨカゼがスピードを上げていく。どうやら先頭はアムネジアだ!』
ヤシロRCの吉野は、その光景を満足そうに眺めていた。
「そうだ、それでいい」
今まで散々ソヨカゼにやられてきた。それは全てソヨカゼを先頭で気持ち良く走らせたからに違いない。
だが、アムネジアはスプリンターズステークスを勝った最速馬だ。ここでハナを切って、ソヨカゼを気持ち良く走らせなければ、必ず勝機はある。
吉野は不敵な笑みを浮かべていた。
『向正面から3コーナーへ。ここでソヨカゼがアムネジアに並んだ!それをピッタリとマークするラストブリット。何処で仕掛ける?3コーナーから4コーナー。ここで先頭はソヨカゼか。だが、アムネジアもまだ残っている』
ここから、長い直線。
邪魔するものなど何もない。
「さあ、行くよ!ソヨカゼ!」
ソヨカゼは地を這う姿勢にかわる。
そして、加速していく。
『直線に入り先頭のソヨカゼ、更に加速していく!アムネジアとの距離をドンドンと突き放していく!だが、後続もやって来たぞ。その馬群から飛び出したのは、やはりこの馬。アリスブラックだ。ここでも脅威の末脚を見せる!残り400mを切った。ここでついにラストブリットが動く!アムネジアを交わし、前に……っと、ここで接触だ!?ラストブリットとアリスブラックが接触!!!アリスブラックは大きく体勢を崩した!だが、直ぐに持ち直してラストブリットと並んだ!これは壮絶な叩き合いだ!先頭のソヨカゼとは5馬身差!それをラストブリットとアリスブラックが縮めて行く!』
「行け!」
ラストブリットを応援する吉野は、力のこもった声を出していた。
「行け!」
アリスブラックを応援する馬主も堪らずに声に出す。
「頑張れ!」
信忠もソヨカゼを応援した。
『残り200mを切った!先頭は未だソヨカゼ!だが、後ろとの差は2馬身まで詰め寄られているぞ!尚もラストブリットとアリスブラックは壮絶な叩き合いだ。双方ともに鞭が舞い続ける!残り100mを切った!おおっと!?ここで僅かだが、差が広がったか!?ソヨカゼだ!ソヨカゼがここに来て突き放す!』
「頑張れ!頑張れ!」
巴はレースで初めて、ソヨカゼの首を押した。ソヨカゼの首が上下するタイミングに合わせて、少しでもソヨカゼの力になるようにと。
『ソヨカゼだ!ソヨカゼがその差を3馬身に広げた!ソヨカゼで決まりだ!今、ソヨカゼが1着でゴール!2着はラストブリット、3着にアリスブラックだ!っと、審議のランプです。このレースは審議のランプが点灯しています。お手持ちの馬券は捨てずに、持ったままでお願いします』
その審議は長引いた。
直線に入ってからラストブリットがアムネジアを交わした時、豪脚を炸裂させていたアリスブラックの進路を妨害したかどうかを、長く審議される事になる。
審議の結果、進路妨害までには当たらないとされた。
だが、ラストブリットの鞍上には、その強引な騎乗に処分がくだされる。
その後、最強馬を決めるはずのこのレースは、物議を醸すことになる。
競馬に『もしも』は無い。それでもいいたくなる時もある。
『もしも』あの接触が無かったら、勝っていたのは、ラストブリットかアリスブラックのどちらかだと。
それに対して、ソヨカゼファンも反論する。最後に突き放している時点で、どうあがいてもソヨカゼの勝ちだと。
この争いに、決着がつく事は無いのかもしれない。
【ソヨカゼ】
主な勝ち鞍:無敗牝馬三冠・ジャパンC




