11話 GⅠ 秋華賞
10月3週 京都 2000m 芝 右
GⅠ 秋華賞(牝馬限定)
「ここ京都競馬場から私、実況の庚が解説に武田さんをお迎えしてお送りしたいと思います。武田さん、本日はよろしくお願いします」
「武田です。よろしくお願いします」
「早速ですが、本日の見所はやはりソヨカゼでしょうか?」
「そうですね。どうしてもこのレースの中心は、彼女になるでしょうね。ただ、牝馬三冠のプレッシャーもあると思いますよ」
「鞍上の有馬騎手は、まだデビュー2年目ですね。こういう大舞台では、緊張も仕方ないかもしれません」
「ええ。そして、その三冠を阻むために、ライバルたちが揃っていますから。なかなか簡単にはいかないのではないかと……」
「ライバルと言えば、まずはカシスレーベルですね。ニュージーランドトロフィーを勝ち、NHKマイルカップ、安田記念とGⅠ2勝だけではなく、前走の紫苑ステークスもきっちり勝ち、4連勝中と勢いがありますね」
「そうですね。他にもスノーベリーも外せないでしょう」
「スノーベリーは故障を心配されましたが、前走のローズステークスで完全復活の圧勝を見せてくれましたね」
「ええ。そして、怖いのはシーズンスターです」
「え!?オークスでソヨカゼに完敗していると思うのですが……」
「あのレースは、もし僕がシーズンスターに騎乗していても、同じように負けてましたよ」
「そうなんですか?」
「ええ。誰もが思ったはずですよ。ソヨカゼが掛かっているのを、鞍上の騎手が抑える事が出来ていないと。実際、かなりのハイペースでしたから。4コーナー手前で、ソヨカゼが潰れると思いました」
「ですが結果は、ソヨカゼの圧勝でしたよね?」
「ええ。その通りです。そして、3コーナー途中で真っ先にそれに気づいたのが、シーズンスター鞍上の的羽騎手です。直ぐに前に持って行こうとしてましたね。それに各馬が反応した訳なんですが……」
「間に合わなかったと?」
「ええ。ですが、怖いですよー。間違い無く的羽騎手の標的にされてるでしょうから」
「武田さんも現役時代には、的羽騎手にやられてましたね」
その時、武田の脳裏をよぎったのは、自身にダービーを初めてくれた馬だった。
その馬を2度負かしてるのが、的羽騎手の馬だった。
「うっ……それだけ、彼の動きには注意すべきでしょう」
「そうですね。夏を超え、その美しさに磨きをかける乙女たち。互いの意地と意地のぶつかり合い。その熱い炎は、山を彩る紅葉に負けないくらい、ここ京都競馬場を真っ赤に染めようとしています。さあ、主役になるのは誰だ!?これから始まるレース、一瞬たりとも目が離せません!」
いつもなら自信満々に話し始める智子が、珍しく黙って考え込んでいた。
「ちょっと、どうしたのよ。具合でも悪いの?」
巴が母を心配して言う。
それに対して智子は、何かを決めたように話し始める。
「悪いのは具合じゃなく、都合よ。この京都競馬場で巴もソヨカゼも初めて走るんだけど、本当についてない事に昨日は雨が降っているの」
「それはマズイのかな?」
信忠は疑問符を浮かべる。確かに、今まで雨の中のレースは無い。
だが、今も別に雨が降っている訳でも無かった。
「前日が雨だとね、馬場がもの凄く荒れているの。特に内側が……」
どうも、今日の智子ははっきりしない。
だが、深呼吸すると一同に向かって断言する。
「つまり、今日のレース展開は予想できません!」
語尾に「てへっ」とでも付ける勢いで智子はぶっちゃけた。
「えっと……それで作戦はどうするの?いつも通りでいいの?」
「んー。取り敢えず、この京都競馬場の説明からしておくわ。ここの特徴はズバリ3コーナー手前からの登り坂と、そこから4コーナーにかけての下り坂なの。で、タブーとされているのが3コーナーの登りから仕掛けること。これをすると馬の消耗が酷いことになるわ。さらに4コーナーから仕掛けるのも、スピードがのり過ぎてまともにコーナーを曲がりきれなくなるの。だからタブーというか、もう無謀よ。まあ、それで勝ってるミスターシービーという名馬もいるけどね……どっちにしても雨で内が酷い状況だと、関係なくなるのよ。どの馬も内を避けてくるから」
ここにきて、ようやく信忠にも巴にも理解出来た。
そもそもレース経験の少ない巴と、賢くても京都が未経験のソヨカゼでは、ベストなラインが選べない。
それこそが、智子にも予測不能な展開が待っている証拠だった。
「分かったわ。私に任せて!」
巴の自信に溢れるその発言は、智子と信忠をただ不安にさせるだけだった。
今、信忠陣営に不穏な暗雲が立ち込めていた。
『さあ、各馬一斉に綺麗なスタートを決めた!どの馬が行く、どの馬が行く!?そう、やはりこの馬が行く!先頭はソヨカゼだ!今、各馬が正面スタンドの前を通過して行きます!』
巴はソヨカゼの背で、不敵な顔をしていた。
「ふふふ。ねえねえ、ソヨカゼ。今日は私に良い考えがあるの」
一体どこまでフラグを建築するつもりなのだろう。
巴の言葉にソヨカゼは、「ほんと?」と耳を傾ける。
「だから、今日は途中までペースを落として行こう」
ソヨカゼは悩む。
ほんとにそれでいいのかと……
だが、もしかしたらその巴の言葉は、信忠の言葉かもしれない。
母ナヨタケに怒られた時、いつも庇ってくれる信忠。
そんな大好きな信忠の意見だとしたら。
葛藤したソヨカゼは、少しだけスピードを落とした。
『今、2コーナーを曲がり、各馬が向正面に入って行きます。ここで改めて、先頭からソヨカゼ。その直ぐ後ろにはスノーベリー、その距離は2馬身ほどしか離れていません。それにしても、スローペースです。先頭から最後尾まで10馬身に収まっています!』
巴の中では、「計画通り」とほくそ笑む。
名付けて、差し馬が怖いならスローペースにすればいいじゃない作戦であった。
『おおっと、坂を前にして、ここで中団外側にいたシーズンスターが上がっていく!これはこのまま前まで行くつもりなのか!?最後尾のカシスレーベルは今だ動かない』
シーズンスターが上がって来たタイミングで、スノーベリーも真後ろから外側に少しずれると、ソヨカゼに並ぼうとして来た。
えっ……なんで?
まだ、3コーナー手前だよね!?
ここで仕掛けるのは、タブーなんじゃ……
その巴の混乱は、直ぐに嫌でも理解する事になる。
3コーナーに入るソヨカゼの外に、スノーベリーがぴったりと付ける。
それは、ソヨカゼ独特の馬体を傾けるコーナーリングを妨げる事になった。
いつものように馬体を傾ける事が出来ず、ソヨカゼは苦しそうに曲がる。
さらに、スノーベリーの隣にはシーズンスターまで来ていた。
二頭がかりで、ソヨカゼを内ラチに押し付けるつもりなのだ。
何度も激しくぶつかり合い、その度に巴は泣きそうになる。
「ごめん。ごめんね、ソヨカゼ」
その言葉に、ソヨカゼは頭にきた。
それは巴に対してではない。
巴を泣かせる連中に対してだ。
ソヨカゼは巴に、「いーよ。大丈夫」と伝えようと耳を動かした。
そして、スピードを上げていく。
それは外に膨らむ行為のはずだった。
だが、スノーベリーとシーズンスターが壁になっているおかげで、ソヨカゼは体勢を維持したまま強引にスピードを上げた。
それに巻き込まれたのは、スノーベリーとシーズンスターだ。
ソヨカゼのパワーとスピードに、二頭の体力はゴリゴリと削れていく。
『今、最終コーナーを曲がってきた!先頭はソヨカゼか!?その横にはスノーベリーとシーズンスターもいる!直線に入って先頭はソヨカゼだ!スノーベリーとシーズンスターを突き放した!』
「ありがとう、ソヨカゼ」
巴は泣きながら、ソヨカゼに言う。
ソヨカゼは「へーき、へーき」と答えようとして耳を傾ける。
が、何かに気付きすぐに全力で走ることに集中した。
「え!?どうしたの?」
その様子に思わずソヨカゼに尋ねる巴だったが、それに気づいた。
真後ろから何かが近づいてくる、そんな鬼気迫る気配に……
『残り200m、先頭はソヨカゼ!だが、その直ぐ後ろにカシスレーベルだ!最後尾にいたはずのカシスレーベルが、ソヨカゼの直ぐ後ろまで来ているぞ!』
「あの時の借り、今こそ返してやるよ!」
武田和樹の目は燃えていた。
ずっと、ずっと、この日を待ち続けていた。
チューリップでの負け。
そして、クラシック戦線から外される事。
それは紛れもなく屈辱だった。
和樹は天才だと自分で思った事など、1度も無い。
それでも、同期の誰よりも努力して来た。弱音を吐く暇があるなら、ゲロを吐いてでも痩せようとした。
父親からの厳しい要求にも、全て応えて来た。今日、その父親が見ているのだ。
その前で、無様な姿を見せる訳にはいかなかった。
そして、荒れる内側を綺麗に抜けてきたカシスレーベル。
今こそ、この馬が報われるべき時だ。
チャンスはたった一度。
和樹はその一瞬を見極めながら待つ。
ギリギリまでソヨカゼを風除けに使い、ついに交わすためにズレた。
「今だ!行っけぇーーーー!」
武田和樹は吠えた。
カシスレーベルはそれに応えた。
そして、ゴール直前……2頭は並んでいた。
『ソヨカゼか!カシスレーベルか!ソヨカゼか!カシスレーベルなのか!?今、ゴール!だが、分からない。これは写真判定です』
判定の結果
たった2cmの差で、勝ったのは……
ソヨカゼだった。
その時、巴は見た。
いつも巴の前ではクールな武田和樹。その頬を伝って、涙が流れていくところを……
【ソヨカゼ】
主な勝ち鞍:無敗牝馬三冠